家業を継いで地元へ戻るということ
30歳を過ぎた頃だっただろうか。「家業を継ぐ」といって地元に戻る友人や仕事仲間が目立つようになった。僕自身も新卒で入った会社をすぐに辞めてからは父親と同じライター稼業をしているので、家業を継ぐことのメリットはわかっているつもりだ。
最大のメリットは、業界や仕事内容に幼い頃から接しているため、気負いなく伸び伸びと働けることだ。僕の場合、根暗で協調性が低いのにプライドが無駄に高い人が多い出版業界に違和感より親和性を覚えた。収入が不安定になるフリーライターという働き方にも不安よりも気楽さを感じ続けている。
ただし、土地や工場、従業員(政治家の場合は選挙民)を抱える職業を継ぐとなると話は別だ。基本的には生まれ育った場所で住み暮らさなければならない。そのうえで負債を含めた有形無形の財産を引き継ぐ。重いなあと僕は思ってしまうが、地元に根を下ろして働く親の姿を見て育った人たちからすると、家産を守りながら地元で暮らすことも当たり前のことなのかもしれない。
外資系企業勤務から地元での生活へ
愛知県田原市で農業を営む青木恭一さん(仮名、38歳)が実家に戻ったのも30歳の目前だった。愛知県外の国立大学を出て、海外留学経験もあり、東京の外資系企業などで働いていた青木さん。地元に帰る決断をした理由は一つではない。
「東京での仕事と生活はすごく刺激的で楽しかったです。でも、将来に家庭を持って暮らしていくイメージは持てずにいました。人混み、特に満員電車が苦手だったこともあります」
僕も愛知県で暮らし始めて2年が経つので青木さんの感覚は少しわかる。見知らぬ他人と体がぶつかってしまうほどの人混みへの免疫は、都会からしばらく離れると急激に低下する。身動きがとれないような混雑状況に身をさらすことに本能的な危機意識を覚えるのだ。たまになら我慢できるけれど、毎日は辛すぎて怖すぎる。先端までは電車が通っていない渥美半島に位置する田原市で18歳まで住み暮らした青木さんは、東京のすさまじい満員電車に適応できなかった。
もう一つの理由は、家族への思いだ。両親は長男である青木さんに対しても「お前がやりたいことをやればいい」と言ってくれて、県外の大学進学や東京での就職にも反対をしなかった。しかし、いつか戻ってきて継いでほしいという両親の願いはわかっていた。
「戻って来てから数年後には両親が相次いで入院・手術を経験しました。一家の大黒柱になることを求められ、家族を守ろうという気持ちが固まりました」
そのときには田舎暮らしと農業が肌に合うと感じ始めていた。一度は国内外の都会に出て住み暮らしてみたからこそ、地元の良さと自らの適性を客観的に見つめられたのかもしれない。
「子どもの頃は農家であることがコンプレックスでした。でも、土と植物に触れて働くことが人間らしい生活なのだと思うようになりましたね。自分には合っているのかな、と今では納得しています」
愛知名物「モーニング」が朝食
仕事のスタートは朝8時頃。職場は実家に隣接している温室なので出勤時間はほぼゼロだ。2時間ほど作業したら近所の喫茶店で朝食。コーヒー代だけでトースト、ゆで卵、サラダがつくという愛知名物の「モーニング」を楽しみながら、生産管理日誌や漫画を読んで休息を取る。昼は12時頃まで働き、再び休憩。昼寝をするのが日課だ。夕方6時には仕事が終わる。
「植物が相手なので土日も仕事があることは少なくありません。ただし、繁忙期以外は残業することはなく、夜は習い事や友人との時間にあてられています。普段は体を動かす仕事をしているので、それ以外は知的なことに興味が出ますね。英語を教えたり、執筆活動をしたり、家業のホームページを作ってみたり、ギターや格闘技を習ってみたり。農業をしながら芸術・創作活動をしていく、という宮沢賢治的な暮らしを目指しています」
完全に充足しているように見える青木さんだが、結婚をはじめとして「課題」も少なくない。続きは後編でお届けする。
(後編は8月21日の掲載予定です)
<著者プロフィール>
大宮冬洋(おおみや・とうよう)
フリーライター。1976年埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業後、ファーストリテイリング(ユニクロ)に就職するがわずか1年で退職。編集プロダクションを経て、2002年よりフリー。愛知県在住。著書に『バブルの遺言』(廣済堂出版)、『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました』(ぱる出版)など。食生活ブログをほぼ毎日更新中。毎月第3水曜日に読者交流イベント「スナック大宮」を東京・西荻窪で、第4日曜日には「昼のみスナック大宮」を愛知・蒲郡で開催。
イラスト: 森田トコリ