郊外を走る鉄道路線と都心部を走る地下鉄が、会社間の垣根を超えて直通運転をすることは東京では珍しくない。1960年、都営地下鉄浅草線と京成電鉄が相互乗り入れを開始。これにより、郊外から都心部まで乗り換えなしで移動することができるようになった。浅草線・京成線の直通運転を皮切りに、東京ではあちこちの路線で相互乗り入れが始まった。これが通勤圏を拡大させる作用を促し、郊外のベッドタウンが急速に造成されていく。

ベッドタウンから都心部へと通勤するライフスタイルが広まったシンボル的な駅とも言えるのが、東武鉄道伊勢崎線の獨協大学前駅だ。同駅は2017年に駅名が改称されて現駅名になったが、1962年の駅開設当時は松原団地駅という駅名だった。

  • 獨協大学前駅<草加松原>へと駅名改称された後の駅西口。ロゴも新しいデザインに変わっている

その名の通り、駅西側は見渡す限り住棟が広がっていた。草加松原団地は5900戸、300棟を超える大規模な団地で、その威風堂々とした住棟群は、"東洋一のマンモス団地"とも謳われた。

  • 駅名改称前の松原団地駅西口の様子(2008年撮影)

団地には多くの人が暮らしていたので、団地内には八百屋・魚屋などの食料品店、衣料・雑貨などの日用品店はもちろんのこと、飲食店なども多く軒を連ねていた。住民だけではなく、近隣からも人が集まり、商店街は活気に満ちていた。団地住民の交流も盛んで、お祭りやスポーツイベント、カラオケ大会なども定期的に開催されている。

そうした団地の暮らしは、時代とともに終わりを告げる。住棟も歳月を経過したことから、新しく建て替えられた。現在、団地はコンフォール松原という今風の名前がつけられた住棟へと新しく整備されている。雰囲気も、これまでとはどことなく違っている。建て替えにより、住棟は高層化した。その余剰スペースは民間事業者へと売却されたが、そこにも賃貸住宅などが整備された。以前よりも、駅前は活気を帯びている。

  • 伝右川沿いから眺める建て替えられた団地の住棟群

団地の住棟が建て替えられたこともあって、2017年に駅名は改称された。草加松原団地とともに、同駅を最寄りとしていた獨協大学の名称を用いて獨協大学前駅となった。駅名にも採用された獨協大学は、駅の西口から団地が立ち並んでいたエリアを通り抜けたところにある。綾瀬川の支流・伝右川を渡ると、獨協大学のグラウンドが見え、その先に校舎とキャンパスが広がる。獨協大学の前身である獨逸学協会学校は、伊藤博文や井上馨といった明治維新の立役者が学んだ由緒ある学校としても知られる。そして、獨協大学と東武鉄道は密接な関係にある。

  • 駅から団地を通り抜けた先に広がる獨協大学のキャンパス

東武鉄道で社長を務めた2代目根津嘉一郎や系列会社の東武常磐運輸で社長を務めていた関湊などが協力したことにより、同地に獨協大学が開学した。また、元文部大臣で獨協大学の初代学長を務めた天野貞祐から請われて、関は獨協学園理事長に就任している。それほど両者は固い絆で結ばれた関係にある。

一方、駅東口に目を転じてみると、こちらは副駅名称でもある<草加松原>にちなむ史跡が残る。駅東口からまっすぐ延びる道を約3分歩くと、綾瀬川に架かる百代橋が見えてくる。百代橋は、俳聖・松尾芭蕉のおくのほそ道の序文「月日は百代の過客にして」が由来だ。

  • 獨協大学前駅の東口はショッピングモールやスーパーなどが立ち並び、買い物客でにぎわう

綾瀬川の両岸は市民が憩う場になっており、公園や遊歩道が整備されている。西岸は芭蕉がおくのほそ道で歩いた道とされる。当時と現代とでは、見える風景はまったく異なっているだろうが、それでも松並木の間をのんびりと歩けば、芭蕉になった気分を味わえる。遊歩道には、芭蕉の功績を称える記念碑や銅像なども建立されている。もちろん、同行者の河合曾良の像もある。遊歩道は歴史を伝える史跡でもあるが、多くの近隣住民がジョギングや犬の散歩などで利用する憩いの場でもある。

  • おくのほそ道の序文「月日は百代の過客にして」から命名された百代橋

  • 松並木からの木漏れ日が気持ちよく、多くの市民が散歩やジョキングに興じている

  • アメリカ出身の日本文芸評論家・キーンドナルド氏による碑文

  • おくのほそ道で歩いたことを後世に伝えるべく、遊歩道には松尾芭蕉の銅像も建立されている

綾瀬川沿いに松並木を南へと歩けば、街道沿いには草加名物のせんべい屋が並ぶ。老舗の雰囲気を残す木造建築の店舗もいくつかあり、それらはこの地が江戸時代に宿場町としてにぎわったことを偲ばせる。しょうゆの名産地でもある千葉県野田が距離的に近かったこともあり、草加のせんべいはしょうゆで味つけされるようになった。それが評判を呼び、現代まで草加名物として伝わる。

  • 街道沿いには草加名物のせんべい屋が多く軒を連ね、老舗の雰囲気を伝える店舗・看板も残る

草加せんべいが名産品として広まるのは、その味も大きな要因だが、江戸期における草加が交通の要衝地だったことが大きい。草加には奥州街道・日光街道で2番目の宿場町が開設されて、多くの旅人が行き交った。保存がきくせんべいは旅人から好評を博したが、綾瀬川の舟運によって江戸にも運ばれるようになり、それが草加せんべいの名声を高めることにもつながった。芭蕉が歩き、江戸時代に旅人が行き交うことで草加せんべいが名産になり、それが舟運で評判を広める。江戸時代から要衝だった地は、戦後も団地で活気がみなぎり、団地の面影が薄れても東武鉄道によって輝き続けている