2016年に発表された映画『君の名は。』は、興行収入250億円を突破する大ヒット作になった。同作は、海外の映画祭で賞を総なめするほどの高い評価を受けている。制作の指揮をとった新海誠監督は、これまでにもたくさんのアニメーション映画を手がけてきた。新海監督の名前は、同作によって広く世間にも知られることになった。(※取材は3月に実施)
その新海誠監督が、新作「天気の子」の舞台として選んだのが山手線の田端駅だった。しかも、「天気の子」で描かれた田端駅は、乗降客のうち9割以上が利用するとされる北口ではなかった。
人の気配をほとんど感じられず、小さな駅舎とその傍らに自動販売機が所在なさげに佇むだけの南口から延びる坂道がその舞台として選ばれている。
国内屈指の知名度を誇る山手線。今春に開業した高輪ゲートウェイ駅のように話題になる駅、世界でもっとも忙しいとされる新宿駅、日本の玄関口として威風堂々の姿を見せる東京駅、再開発によって目まぐるしく変化する渋谷駅など、あまたの駅がある。そのなかで田端駅は光のあたらない、地味な駅としてひっそりとしてきた。
地元民でも、南口はほとんど利用しない。そんな閑散とした田端駅南口が新進気鋭のアニメーション監督の新作の舞台になる。そんな背景から、田端駅界隈では『天気の子』への期待感が高まった。久々に光が射す機会に恵まれた田端駅だが、大正から昭和にかけて多くの文士が居を構えたことは、あまり知られていない。文士たちが住んだ場所、そこは地元民たちが"高台"と言い表す一帯だ。
田端駅は武蔵野台地の東端に駅があり、崖線によって生活圏が大きく分けられている。北口が街としてそれなりに開けているのに対して、いまだ南口が閑静な住宅街としての雰囲気を保っている。街が大きく二分しているのは、そうした崖線による地形的な分断が少なからず影響している。
田端の"高台"に文士が多く移り住むようになったターニングポイントは、作家・芥川龍之介が居を構えたからとする見方が一般的になっている。新宿で生まれた芥川は、本所(現・江東区)や横須賀などを転々とした。1914年に芥川が田端へと居を構えると、同じ文学を志す文士たちが芥川を慕って田端に結集する。田端は芥川の終の住処になった。
人生を自ら閉じた芥川だが、35歳という短い生涯で多くの作品を発表した。芥川は多感な学生時代から文学活動に没頭し、大学時代にはすでに頭角を現していた。芥川の求心力によって、室生犀星、菊池寛といった文士たちが次々と田端に住居を構え、それが文士村の雰囲気を醸し出していく。しかし、田端に居を構えた文士たちの多くは短期間で転居していった。現在の文学界における知名度もあり、芥川が田端文士村のイメージリーダーのような存在になっている。
1945年4月の城北大空襲により、田端は一面焼け野原と化した。田端には軍事施設・軍需工場はなかったが、近隣の王子・赤羽・板橋に軍事施設・軍需工場が点在していた。アメリカ軍はそれらにターゲットにして猛攻撃をしかけた。田端が焼け野原と化したのは、その余波を受けたということになる。
こうして、芥川の邸宅は焼失。田端に多く居住した文士たちの足跡も焼かれてしまい、わずか70数年しか経ていないのに、田端から文士村の面影を感じることは難しい。1980年代まで、田端が文士村として注目されることがなかったのは、そうした事情があった。
さらに、ここ数十年間では、文士が集まるよりも前に芸術家が多く集まっていたことでも田端は注目されるようになっている。そのため、最近は田端を"文士村"ではなく"文士・芸術家村"と呼称する機会も増えている。
田端に芸術家が集まるようになった嚆矢(こうし)は、1903年に陶芸家の板谷波山が田端に窯を築いて創作活動を開始したことだった。板谷は田端を活動拠点にしたわけだが、それは芥川が邸宅を構えた時期よりも早い。また、板谷波山のほかにも、多くの洋画家や彫刻家が田端にアトリエを構え、創作活動に打ち込んでいる。
日本美術界を振興するために日本美術院を創設し、ボストン美術館員としても活躍した美術評論家の岡倉天心は茨城県五浦を活動拠点にした。岡倉は上京する機会が多く、東京にも滞在する居宅を構える必要があった。岡倉は、その地として田端を選んだ。田端に多くの芸術家が移り住むようになったのは、山手線が大いに関係している。岡倉天心が初代校長を務めた東京美術学校(現・東京藝術大学)は、1887年に上野に開校した。
1896年、東北本線(現・京浜東北線)の駅として田端駅が開業。これにより、上野へのアクセスが飛躍的に向上した。田端駅の開業がきっかけになり、東京美術学校へと通う学生や関係者の多くが田端へと住むようになったといわれる。
田端の高台側から南へと歩いていくと不忍通りがある。現在は廃線になっているが、ここには市電(現・都電)の20系統・40系統が走っていた。東京美術学校の学生・教師・事務員なども、市電を利用して通勤・通学していたことだろう。そうした鉄道アクセスが、田端を芸術家の村にした。
田端の文士村としての歴史は、1980年以降に注目されるようになった。それから数年が過ぎて北区が文士村の形成過程に注目。さらに、田端の郷土史を語り継ぐために、1993年に田端文士村記念館を開館させた。行政が文化的価値を認めるようになってから、まだ30年に満たない。
それだけに、田端と文士・芸術家たちの関係は歴史に埋もれたままになっている。このほど、芥川の住まいだった場所が、所有者の事情から売りに出された。北区は敷地を購入し、そこを記念館・記念公園として整備する計画を進めている。今後の予定はまだ決まっていないが、短い期間ながら田端で花咲いた文士・芸術家たちの活躍に再び注目を集める日がくるかもしれない。