インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景を見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有することを目的とする本コラム。今回のターゲットは日本を代表する有名なダムのひとつ、富山県の黒部ダムだ。
行くだけで命がけだった、山奥の中の山奥で大工事をする厳しさ
“日本一のダム”と言い切っても、異論は出ないであろう黒部ダム。社会科の教科書に必ず出てくる有名インフラなので、授業のときに居眠りさえしていなければ、誰もが耳にしたことはあるはずだ。
黒部ダムに行くと決めてから、アマプラで1967年公開『黒部の太陽』(熊井啓・監督 日活)を観た。
1964年に毎日新聞で連載後、出版された同名小説(『黒部の太陽』木本正次・著 毎日新聞社)を原作とする映画だ。黒部ダムの事業主体である関西電力が全面協力しているため、ダム建設時に現場で起きた諸事実が生々しく描かれている。
コンクリートの壁をガンガン築き、渓谷の川を堰(せ)き止め、壮大なダムとダム湖をもりもり造成していく様を描いた物語なのかと思えば、さにあらず。
黒部ダムの建設予定地、北アルプスの立山連峰と後立山連峰に挟まれた黒部峡谷は、人里離れた山深いところにある。それもそんじょそこらの山奥ではなく、行くだけで命がけの大山奥だ。
「黒部に怪我はなし」という古諺(こげん)どおり、道中でもし転んだり滑ったりしたらただの怪我では済まない場所。ダム工事の初期段階では、そんな山奥にある現場まで徒歩や馬で資材を運んでいたので、日常的に歩荷の転落死亡事故が発生した(映画の冒頭にそうしたシーンもある)。
そこでダム予定地へ安全・効率的ににアプローチするため、まずは北アルプスをぶち抜くトンネルを掘ることになる。『黒部の太陽』は、全長5.4キロメートルにおよぶそのトンネルの掘削工事を描いた映画なのだ。
関西電力の現場責任者・北川を演じるのが三船敏郎。難関である第三工区のリーダー・岩岡を演じるのは石原裕次郎。昭和の2大スターがそろい踏みした映画としても知られている。
掘削工事は当初順調だったものの、フォッサマグナの大破砕帯(硬い岩盤が細かく崩れ、大量の水を含む地層)にぶつかり、水温4度の冷水が毎分660リットルも噴き出す悲惨な現場になっていく。
しかし北川と岩岡の強いリーダーシップと、機転、叡智、忍耐、努力、根性、涙、汗などにより(あぁ素晴らしき昭和)、7カ月かけて約80メートルの破砕帯を突破。ついにトンネルを開通させるのだ。
映画ではあまり触れられていないが、ダム本体の工事ももちろん厳しいものとなり、合計171人もの殉職者を出したという。
「黒部に怪我はなし」
ほんの60年前の近代工事においても、黒部の山は極めて厳しかったのだ。
映画に描かれた大難所のトンネルを電気バスに乗ってスイスイと通過する
映画『黒部の太陽』を観て深く感じるものがあり、黒部ダム本体より、そこに向かうトンネルこそぜひこの目で見たいという気持ちが強くなっていた。
建設当時は大町トンネル、現在は関電トンネルと呼ばれるそのトンネルの起点は、長野県大町市にある。
市街地から車で県道45号扇沢大町線(大町アルペンライン)に入ると、みるみるうちに山深くなり、道端にニホンザルがしたり顔で出没するようになった。
朝から降っていた雨は11月中旬だというのにみぞれ混じりとなり、心細くなるころ、県道の終点である扇沢総合案内センターに着いた。ここの駐車場に車を置き、バスにてトンネルへと入っていくのである。
黒部ダムにつながる関電トンネルは関西電力が保有する専用道路で、一般車両が通行することはできない。かつてはトロリーバス、現在は電気バスが定期運行し、観光客をダムまで連れていく。
バス乗り場のある建物の中には、この辺にしばしば出没するというツキノワグマの剥製や、映画『黒部の太陽』を記念する石原裕次郎のサイン入りプレートなどが展示されていた。
黒部ダムは冬になると観光ルートが閉鎖されるので、一般人は4月中旬から11月30日までしか入れない。僕が訪ねた11月中旬は閉鎖前ぎりぎりのタイミング。
この時期はダム最大の見どころである放水が行われないことや(観光放水期間は6月下旬〜10月中旬)、平日だったことも相まって、観光客はかなり少なめだった。
だが、そんなシーズンオフに訪れる酔狂な客に対しても、黒部ダムのマスコットキャラ「くろにゃん」は精一杯の愛嬌を振りまいて、とても健気だった。
そんなわけで電気バスに乗り込み、いざトンネルの中へ。
しかしよく考えれば当然なのだが、トンネルに入ってしまうと風景に大きな変化は起こらない。
見どころといえば、電光看板で示され車内放送でも知らされる破砕帯なのだが、コンクリートで打たれたトンネルの壁を透かして破砕帯の地層が見えるわけでもない。
僕はありったけの想像力を動員し、ここで泥にまみれ、水浸しになりながら悪戦苦闘する三船敏郎や石原裕次郎、いや、当時の本物の作業員たちの幻影を見ようとした。
だが電気バスは安全運転でスイスイと、破砕帯や、トンネル“貫通点”の看板横をあっさり通過。
扇沢駅から黒部ダム駅までは約16分の道のりだったが、単調であるがゆえ、より長く感じたのだった。
高度経済成長期の日本を支えた巨大発電施設の今とこれから
黒部ダム駅に到着した後は、220段の地中階段を登り展望台へ。
そこからさらに、コンクリート壁にへばりつくように設置された、スリル満点の見学路を歩きながら眺望を満喫する。周囲に迫る山々の存在感に圧倒され、「天険」とも呼ばれた黒部の険しさを実感するのだった。
黒部ダムは、発電のみを目的とするダムである。関西電力の事業として1956年に着手され、難工事の末1963年に完成。堤高(ダムの高さ)は、日本最大の186メートルを誇る。
日本の大規模ダムは1900年(明治33年)に神戸市水道局が造った、上水道用の布引五本松ダム(堤高33.3メートル)が最古のもの。
その後は堤高50メートルを超えるダムが続々と建設されるようになり、昭和に入ると折からの機械化工法の普及によって、ダムは80メートルを超え100メートルを超え、どんどん巨大化していった。
しかし戦争の激化により、当時あった大ダム建設の計画はほとんどが中止。そして戦後の急速な復興期に、日本は深刻な電力不足に陥るのである。
当時の関西地方は慢性的な計画停電が続き、電力不足による復興の遅れも発生していた。停電による死亡事故も頻発して社会問題となると、関西電力は決定的な打開策を打ち出す。
過酷な自然に阻まれ、大正時代から何度も失敗を繰り返し頓挫していた、黒部ダム建設計画の復活である。
総工費は513億円。
現在の感覚では少ないとも感じるが、当時のレートでは関西電力の資本金の5倍となる巨費だったそう。まさに当時の日本らしい力強き話であり、頭の中には「風の中のす〜ばる〜 砂の中のぎ〜んが〜」というBGMが巡る。
黒部ダムの着工前年である1955年、日本の全電力のうち78.7%が水力発電によって賄われていたというから、黒部ダムはまさに国運を賭けた大事業だった。だが完成前年である1962年になると、水力発電の割合は46.1%まで減っている。経済成長によって獲得した外貨で安価な化石燃料が確保できるようになり、日本の発電は火力へと軸足を移しつつあったのだ。
そして2022年には、火力の70%以上に対し、水力発電は全電力の7.6%にまで落ち込んでいる。5.6%の原子力や3.7%のバイオマス発電よりは多いが、9.2%の太陽光発電よりも頼られなくなっているのである。
この巨大インフラ・黒部ダムは、時代の端境期に登場した発電モンスターであり、そう遠くない将来には役割を終え、「産業遺産」と呼ばれる過去の存在になっていくのかもしれないと思うと、一抹の切なさを感じるのだった。