いよいよ『龍馬伝』も始まり、改めて坂本龍馬ブームが熱を帯びてきた2010年。龍馬といえば、土佐、長崎、そして京都などが、主な活躍の舞台となっている。しかし、江戸にも何度か滞在しており、さまざまな人々と出会っている。そのほとんどは昔の面影が失われているが、ゆかりの地に立ってみて当時に思いを馳せてみるのも悪くない。いつも眺めている東京の景色が、新鮮に感じられるのではないだろうか。

2009年12月10日には「300ピースジグソー 坂本龍馬」も発売された(発売元 : 株式会社ビバリー)。パッケージの裏面には人物相関図もある

※なお、本文で人物名の()内は、今回のドラマの出演者。

龍馬とニコライ堂を結ぶものとは?

今回、龍馬(福山雅治)の物語は、岩崎弥太郎(香川照之)の視点から描かれる。三菱創始者として知られる岩崎弥太郎は、海援隊の経理を担当していたことでも知られるが、龍馬とは不仲だったといわれている。旧岩崎邸(台東区池之端)は、洋館と庭園が今も見学可能。直接の関係はないものの、龍馬ゆかりの場所といえないことはない。

旧岩崎邸は、1896(明治29)年に建設された。設計はジョサイア・コンドル。外観も内部も優美で印象的だ。庭園も見事で四季折々の眺めが楽しめる。写真提供 : 都立旧岩崎邸庭園サービスセンター

もうひとつ、龍馬と意外なつながりのある建物がニコライ堂(千代田区神田駿河台)だ。正式名称は東京復活大聖堂。日本ハリストス正教会の大主教座聖堂である。日本ハリストス正教会の最初の信者であり、最初の日本人司祭となったのが、沢辺琢磨。龍馬の又従兄弟で、江戸で拾った金時計を売ってしまい、それが不法なものであったので訴追される身となったが、龍馬や武市半平太(大森南朋)に助けられて江戸を脱出し、函館でロシア正教会のニコライ神父と運命的な出会いを果たす。

初めはニコライを敵視していた琢磨だったが、ニコライの知性と人間性に信服するようになり、キリスト教がまだ禁じられていた明治元年に洗礼を受け、その後、さまざまな困難を乗り越えながら布教活動を行った。ニコライ堂建設までの琢磨の姿は、小説『がんがん寺の鐘』(成田千秋著 河出書房新社)に描かれている。

龍馬、剣術修行のため江戸へ

龍馬が初めて江戸へやって来たのは、1853(嘉永6)年の4月。19歳のとき。溝淵広之丞(ピエール瀧)が同道していた。入門したとされる北辰一刀流の千葉定吉(里見浩太郎)道場は、現在の中央区八重洲2丁目7番地あたりにあったと伝えられている。

千葉定吉の道場があったと推測される、鍛冶橋交差点付近。はっきりとした場所はわかっていない

ただし、龍馬が修行をしたという確たる史料はないという。6月にはペリーが来航し、龍馬ら江戸詰の土佐藩士は、品川海岸の警備に当たっている。12月には佐久間象山に入門し、西洋の砲術を学んだ。象山の塾は、現在の中央区銀座6丁目15番地付近にあった。

佐久間象山の塾があった場所。江戸幕府の御用絵師、狩野家の画塾もこの付近にあったという

翌1854(安政元)年6月、剣術修行の期間を過ぎたため高知に戻った龍馬は、1856(安政3)年9月、再び江戸に出て、土佐藩中屋敷に滞在したとされるが、下屋敷だったという説もある。中屋敷は中央区築地1、2丁目辺り、中央区役所付近にあり、下屋敷は品川区東大井3丁目辺りにあったとされる。

土佐藩中屋敷はこのあたりにあった。ちなみに、上屋敷は現在の東京国際フォーラムあたりに位置していた

下屋敷に近い立会川の商店街は、すでに龍馬で盛り上がっていた

下屋敷跡近辺は、現在、浜川中学校となっている。立会川駅からは徒歩10分弱

駅の近くの公園には立派な龍馬の像が立っている

土佐藩の荷揚げ地には、ペリーの再来航に備え浜川砲台が築かれ、龍馬もその仕事にかかわった

浜川砲台跡。2004年に出土した砲台の礎石を見ることができる。奥には龍馬のイラストも

龍馬の時代、この向こうには江戸湾が広がっていた。龍馬がいた場所にいると思えば、その景色も見えてくる?

この頃、龍馬は千葉定吉の兄の周作が創設した玄武館道場(千代田区神田東松下町)にも通っていた。前述した沢辺琢磨の事件が起きたのは、1857年のこと。そして1858(安政5)年9月、剣術修行を終えて龍馬は高知に帰った。

千葉周作の玄武館があった場所には「右文尚武」の碑がある。地下鉄岩本町駅からすぐ、旧千桜小学校の入口にあり、柵を開けて敷地に入る

龍馬再び江戸へ、勝海舟との出会い

次に江戸へと下ってきたのは1862(文久2)年8月。すでにこの年の3月脱藩していた龍馬は、千葉定吉道場に寄宿した。脱藩の罪と、吉田東洋暗殺の容疑者にされたため、身を隠したのだと伝えられる。

この頃、龍馬は越前藩主の松平春獄を訪ね、勝海舟(武田鉄矢)、横井小楠への紹介状をもらい、10月(12月との説もあり)、千葉定吉の息子であり、友人である重太郎(渡辺いっけい)とともに、勝海舟邸を訪問している。場合によっては勝を斬るつもりだった龍馬が、世界情勢とその対策を論じる勝に心服し、門下生となった逸話は有名だ。もっとも、龍馬が本当に勝の暗殺を考えていたのか、疑問視する説も少なくない。

このとき勝海舟が住んでいたのは、港区赤坂6丁目10番地のソフトタウン赤坂という建物がある、氷川神社にもほど近い場所。ここには碑が立てられていて、勝海舟邸跡だったこともプレートに記されている。勝はここに1859(安政6)年から1868(明治元)年まで住んだが、その後もこの近くに居を構えた。

勝海舟邸跡の碑。すぐ近く旧氷川小学校の南東の角付近にも住んでいたことがあり、石碑が立っている

28歳のこの年から、龍馬の疾走が始まったともいえる。以後、しばしば勝と行動を共にし、ときには使者として西郷隆盛(高橋克実)を訪ね、そして薩長同盟成立、海援隊設立など、龍馬は八面六臂の活躍ぶりを見せていく。だが1867(慶応3)年11月15日、京都近江屋で刺客に襲われ闘死。33年の生涯だった。

横須賀にある龍馬の妻・おりょうの墓

龍馬の妻で、おりょう(真木よう子)と呼ばれる楢崎龍は、龍馬と日本最初の新婚旅行をしたエピソードでもよく知られている。だが、龍馬の死後は、龍馬の姉の乙女(寺島しのぶ)のもとに身を寄せたものの、間もなく立ち去り、以後、坂本家とは関係を絶った。

その後は、京都や江戸などを転々とし、横須賀へ流れ、そこで旧知の商人と再婚した。晩年のおりょうはアルコール依存症だったともいわれ、1906(明治39)年、66歳で死去。龍馬亡き後は、あまりいい話が聞かれないおりょうだが、『史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍』(鈴木かほる 新人物往来社)は、その真実の姿に迫っている。おりょうの墓は、横須賀市大津町信楽(しんぎょう)寺にある。

おりょう終焉の地に建つ「おりょう会館」には胸像がある。京急線横須賀中央駅から徒歩約15分

おりょうの墓は、寺の境内に入り左手の墓地へ向かうとすぐにわかる。信楽寺は京急大津駅から徒歩約10分

燈明崎から眺めた浦賀沖。やって来た黒船は、浦賀ではなく隣の久里浜に入港したので、記念碑のあるペリー公園は久里浜にある

百花繚乱! 龍馬をめぐる多彩な世界

坂本龍馬に関する書籍、情報は、とにかく多い。大河ドラマに関連して新たに発刊された本も少なくないし、今後も増え続けていくだろう。今回、主に参考にした書籍などをここでは紹介したい。

『図説 坂本龍馬』(小椋克己、土居晴夫監修 戎光祥出版 2005年)

高知県立坂本龍馬記念館館長の小椋氏と龍馬研究家の土居氏が監修。写真や図版が多く、初心者にとってもわかりやすい。龍馬の足取りも細かく記されている。

『坂本龍馬事典 コンパクト版』(小西四郎その他編 新人物往来社 2007年)

20人以上の龍馬研究家などによって執筆されている。さまざまな角度から細かく分析がされていて、中級者以上は熟読したい一冊。内容もさることながら、巻末の関係文献資料目録の充実ぶりは、ファンにとってうれしい限りだ。

『東京幕末維新を歩く旅』(一坂太郎著 山と渓谷社 2008年)

龍馬を含めた、東京における幕末史を地図上で辿ることができる構成となっていて、散策がより楽しくなるガイドブック。地域ごとに全14コースが紹介されている。

『坂本龍馬事典 虚構と真実』(加来耕三著 東京堂出版 2009年)

従来の歴史観を鋭く再検証することで知られる加来氏。これまでの龍馬像をくつがえす説に、ファンは戸惑うかもしれないが、歴史のおもしろさが楽しめる。例えば、「龍馬が江戸へ向かったのは北辰一刀流を学ぶためだったのか?」という考察。その展開だけでも、なかなかスリリングだ。

『伊藤痴遊全集17 坂本龍馬と中岡慎太郎』(平凡社 1930年)

さまざまな人物を語った伊藤痴遊の講談本。司馬遼太郎も参考にしたと伝えられ、多彩なエピソードが記されている。昭和5年の本だが、ルビもふられているので読みやすい。たまにはこういう本もいいのでは。図書館で借りられる。

サイトもさまざまだが、主なものは次のとおり。

■高知県立坂本龍馬記念館

龍馬といえば、まずはここ。

http://www.ryoma-kinenkan.jp/

■坂本龍馬倶楽部

龍馬の人気が改めてわかるサイト。龍馬関連情報も多彩。

http://www.ryoma-club.com/

■長崎大学付属図書館

幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース 龍馬とは直接関係ないものの、当時の日本がイメージできる画像が数多く見られる。

http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/