生活保護を受けることは「恥」なのか?
貧困に陥った時、最後の「セーフティネット(命綱)」となるのが生活保護制度です。生活保護制度は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」ことを定めている憲法25条に基づいています。
しかし、近年、生活保護を受給している人々への風当たりが強くなっています。日本全国の自治体には、「あっちの生活保護受給者がパチンコにいった」、「こっちの受給者が昼間からぶらぶらしている」といった市民からの「タレこみ」が後を絶ちません。受給世帯の子どもは、学校でいじめられ、親は隠れるように生活しています。ある市長は、「市民感情的には、生活保護受給者はまるで敵」とまで言っていました。生活保護を受けることが「悪いことだ」という風潮が高まり、「生活保護を受けたら一族の恥」とまで言われる地域もあります。
生活保護を受けることは「恥」なのでしょうか?
生活保護は「国民の権利」です。生活保護法に定められる「無差別平等の原理」においては、「信条、性別、社会的身分および困窮に陥った原因によって差別を加えない」ことが謳われています。「困窮に陥った原因」も差別の理由にならないということは、すなわち、生活保護は、自己責任論の範疇ではなく、人権として最低限の生活をすることが保障されているということです。
日本の生活保護の受給者は人口の1.7%、ほかの先進諸国に比べても非常に低いレベル
日本の生活保護の受給者は、人口の1.7%です。この割合は、ほかの先進諸国に比べても非常に低いレベルです。ドイツでは、この割合は9.7%、フランスでは5.7%、アメリカでは食費扶助を受ける割合が15%(2014年)となっています。日本の生活保護受給率は、世界的に見ると、大変低いと言えます。この理由のひとつは、人々が困っていても、生活保護を受けることを「恥」と思ったり、周りからとめられたりして、躊躇してしまっているからです。
社会保障制度に占める財源からいっても、年金の54兆円、医療の35兆円に比べ、生活保護の給付費は3.6兆円です。もちろん、それでも、大きな数字ですが、生活保護費の上昇が国の財政を圧迫するというよりも、年金や医療費の上昇のほうが問題です。
生活保護を受ける人への風当たりが強いのは、ひとつに、生活保護を受けていない人々の生活が厳しくなってきているということの表れかと思われます。「私だって、がんばっているのに」という心理が働くのは、当たり前のことです。
生活保護はいわば、社会の一番「下」にある「底」の役割
しかし、生活保護を切り下げると、国民全体の生活に影響します。例えば、2013年には、生活保護を受ける所得制限の基準が切り下げられましたが、このことによって、義務教育の給食費などを援助してくれる就学援助費の所得制限や、課税最低限(所得税を課される所得の最低額)が引き下げられる可能性があります。生活保護が、さまざまな制度とリンクされているからです。いわば、生活保護は、社会の一番「下」にある「底」の役割をしているのです。生活保護を厳しくすると、社会全体が「底抜け」してしまいます。社会の最底辺の人々への支援を縮小することは、社会全体を暮しにくくするのです。
「すべての国民が最低限の生活を保障される」という憲法25条は、国民が誇るべき理念です。この理念を、「絵にかいた餅」にしないために、国民全員が温かい目で、生活保護を見守っていくべきではないでしょうか。そうすることにより、国民の誰もが、もしも、生活困難に陥ってしまった時に、底抜けに落ちて行かないようなセーフティネット(安全網)が機能します。この可能性は、誰にでも、あります。
(※写真画像は本文とは関係ありません)
<著者プロフィール>
阿部 彩(あべ あや)
首都大学東京 都市教養学部 教授。MIT卒業。タフツ大学フレッチャー法律外交大学院修士号・博士号取得。国際連合、海外経済協力基金を経て、1999年より国立社会保障・人口問題研究所にて勤務。2015年4月より現職。厚生労働省、内閣官房国家戦略室、内閣府等の委員歴任。『生活保護の経済分析』(共著、東京大学出版会、2008年)にて第51回日経・経済図書文化賞を受賞。研究テーマは、貧困、社会的排除、生活保護制度。著書に、『子どもの貧困』『子どもの貧困II』(岩波書店)、『弱者の居場所がない社会』(講談社)など多数。