2019年4月30日に幕を下ろす「平成」。マイナビニュースでは、「平成」の中で生み出されたエンタメの軌跡をさまざまなテーマからたどる。この「平成を駆け抜けた番組たち」は、平成の幕開けと同じ時期にスタートし、現在まで30年にわたって続く番組をピックアップ。そのキーマンのインタビューを通して、番組の人気の秘密を探っていく。
第2回は、平成が始まる約2年前の昭和62(1987)年4月にスタートした、テレビ朝日系討論番組『朝まで生テレビ!』(毎月最終金曜 深夜1:25~)。番組スタート時から出演し続ける司会のジャーナリスト・田原総一朗氏と、進行のテレビ朝日・渡辺宜嗣アナウンサーに、天皇制、原発、被差別部落、暴力団など、テレビで扱うのはタブーとされてきたテーマに果敢に挑んできた舞台裏を聞いた――。
「討論の時間無制限一本勝負」
――『朝まで生テレビ!』は、スタートして31年という長寿番組になりましたが、どのような経緯で始まったのですか?
田原:もともとテレビ局の深夜はほとんど再放送だったんだけど、フジテレビが『オールナイトフジ』っていう若い女性が出てきて水着姿にもなる番組をやってウケたんですね。そこで各局が深夜番組をやろうとなって、テレビ朝日の編成局長だった小田久栄門という人に「なにか考えてくれ」と言われまして。まず、深夜番組は制作費が高くないから有名タレントが出せない、かつ少なくとも終電で来て始発で帰れる番組にしたいといったことをいろいろ考えて、その当時の1986年は、ソ連でゴルバチョフがペレストロイカを唱えて、これは冷戦が終わるという流れがあった。戦後、アメリカを中心とした資本主義の西側と、ソ連を中心とした共産主義の東側の対立がずっと続いてきて、日本でも、保守の自民党と革新の野党。もっと言えば、「競争か平等か」というのが戦後のあらゆる討論の対立軸だったんですよ。冷戦が終わって、じゃあ新しい軸は何になるのか、今までの討論のすべての構造が変わるので、これは面白いんじゃないかと思った。実は、テレビっていうのは、討論番組が一番面白いと思ってる。
――それはなぜですか?
田原:討論に負けたら、政治家も学者も失脚する恐れがあるんですよ。そうすると、勝つか負けるかの戦いになるので、プロレスの言葉を使って「討論の時間無制限一本勝負」と小田さんに説明した。負けた方はこれで終わってしまうというギリギリのところでやったら、面白いんじゃないかと。
――今で言う“ガチンコ”ってやつですね。
田原:そうそう。それに小田さんが「面白い。やろうじゃないか」と乗ったんですよ。こうして僕が企画したんだけど、自分で司会をやるなんて思ってもみなかった(笑)
――初回は利根川裕さん、2回目が筑紫哲也さんで、3回目から田原さんの司会ですね。
田原:結局言い出しっぺだからやるって話になったんですね。
「天皇論をやりたい」「バカ野郎」
――6月29日の放送で第374弾となりますが、たくさんの討論を振り返って、印象に残ってるテーマはなんでしょうか?
田原:始まった時は87年なんですが、翌年の秋に昭和天皇がご病気になられて、世の中が自粛自粛となって、うるさいものは消そうみたいな空気になった。その時に、プロデューサーの日下(雄一)さんに「今こそ天皇論をやろう、天皇の戦争責任までやろうじゃないか」と言ったんです。それで日下さんが小田さんに「天皇論をやりたい」と言ったら「バカ野郎」と一蹴される。僕だったらすぐケンカするんだけど、そこが日下さんのえらいところで、また3日くらいして「やりましょう」とかけあって「バカ野郎」。こうして3回くらい怒鳴られたんですね。そこでどうしようかとなって、僕が企画を変えようと提案した。88年はソウルオリンピックがあったので、「『オリンピックと日本人』みたいなテーマはどうか」って。それで今度は僕も一緒に小田さんのところに行って説明したら、「それはいい!」と喜んでくれたんですけど、そこで僕は「だけど『朝まで生テレビ!』が始まるのは夜中の1時過ぎで、終わるのは5時前だから、小田さん寝てますよね。生番組だから、その場でテーマを差し替えても気づかないから責任もない」と言った。そしたら「俺を騙す気か? 許さないぞ」って怒るんだけど、そんな打ち合わせを4回やったら、これが小田さんの偉いところで、最後はどうも騙されるんじゃないか…と思いながらOKした(1988年9月30日放送「昭和63年秋 オリンピックと日本人」)。
――あとで猛抗議が来るんじゃないかといった怖さはなかったんですか?
田原:天皇論をやっても大丈夫だと思ったのは、野村秋介という当時右翼でとっても尊敬されている男がいた。河野一郎(当時建設大臣)の家を焼き討ちして長く刑務所に入っていたんだけど、どういうわけか僕は気が合ったので、彼にも出てもらったんですよ。
――でも、当時としてはタブーのテーマですよね。
田原:もう大タブー! だから、大島(渚)さんとか野坂(昭如)さんとか小田(実)さんとかもいたんだけど、みんな怖くてなかなか天皇論に入っていけない。そしたら、日下さんがやってきて、「あんたたちがやろうって言うのに、全然本筋に入っていかない。まるで皇居の周りのマラソンじゃないか!」って怒って。
渡辺:当時、時々日下さんが登場してましたもんね。
田原:それで、やっと恐る恐る天皇制の議論に入っていた。週が明けて月曜日に小田さんのところに、日下さんと一緒に謝りに行ったんだけど、そしたら「田原さん、悪いけど大みそかにもう1回やって」って(笑)。視聴率が高くて、野村さんがいたからか、右翼も文句言ってこなかったんだよね。
――渡辺さんもスタートから31年司会を担当されていますね。
渡辺:始まった時は32歳でしたから63歳になったんですけど、今でも『朝生』ほど本番に向かうのに緊張する番組はないですね。今話があった天皇論とか、被差別部落の問題とか、原発とか、「本当にテレビでできるのか?」というテーマを扱ってきましたから。僕の役割は、最初の何分間で、今日はこういうテーマでこういう論点です、メンバーはこの方たちですって紹介するだけと言えばそれだけなんですけど、自分の言葉でなるべく話したいので全部頭に入れて、事前に勉強もして臨むんです。後ろに控えている人たちはみんな専門家ですからね。本当に緊張するんですけど、これを田原さんが見事に仕切っていかれるので、この30年間いろんな意味で勉強になりましたね。
田原:この番組がここまで続いたのは、1つは日下さんがえらい。天皇制で反応が良かったので、テレビの世界でタブーと言われているものに全部チャレンジしようとなった。例えば、原発問題。チェルノブイリの事故があっても、自民党をはじめ原発推進派は安全と言って、反対派を「あいつらは宗教だ。全く科学的じゃない」と批判していた。その反対派は、推進派を「あいつらは利権の団体だ」と言ってたんだけど、両方が席を同じくして討論するというのは、それまで一度もなかった。そこで、推進派の日本原子力産業会議の森一久さんと反対派の原子力資料情報室の高木仁三郎さんに、僕と日下さんで会って、「やっぱり討論をやるべきじゃないか」と提案したら、その2人がやろうと言ってくれた。日下さんはこのために3カ月くらい準備したと思うけど、それで新聞もどこもやってない、原発推進派と反対派の討論が日本で初めて行われたんですよ(88年7月29日放送「徹底討論・原発」)。
渡辺:今月準備して、来月やりましょうというテーマではないので、相当準備をして臨むんですよね。そのスタッフたちのすごさがあります。そして僕が思うのは、実際にタブーに挑んだテーマを放送した後に、「なんで今までやらなかったんだろう」って、喉のつかえがスーッとおりるような感覚が毎回ありましたね。
最大のタブーだった被差別部落問題
――中でも一番のタブーに挑んだテーマはなんでしたか?
田原:被差別部落(89年7月28日放送「徹底討論 “人権”と“部落差別”」)ですよ。それまで触れること自体がタブーだったんだけど、その前の放送で、野坂さんがいわゆる差別用語と言われる発言を連発した。放送禁止用語なので、本当なら「申し訳ございませんでした」と謝るところだけど、僕は謝らなかった。「今、野坂さんが放送禁止用語を連発したけど、そもそもなんでこれが放送禁止なのか。特に、被差別部落というのは一体何なんだ。この問題を根源からやってみたい」と本番で言った。でも、それから日下さんが大変(笑)
――また、関係者の出演交渉にあたるわけですね。
田原:被差別部落の問題については、社会党系が部落解放同盟、共産党系が全国部落解放運動連合会、自民党系の全国自由同和会という団体があったんだけど、3つともすごく仲が悪い。特に、社会党系と共産党系は何度も乱闘やってるくらい。放送までに半年くらいかかったんじゃないかな。
渡辺:そうですね。準備するのに、それくらいかかったと思います。
田原:さらに言うと、やることになったら大阪の朝日放送が「うちはやらない」と言った。それで日下さんと2人で朝日放送に行って「やらないのは差別だ!」と話して、結局放送することになった。広島はやらなかったけどね。それでようやく放送することになるんだけど、あれはすごい緊張感だったね。そんなことテレビでやるの、初めてだったから。
渡辺:すごかったですね。あの緊張感はいまだに体に染み込んでます。このテーマもそうですけど、大島監督とか野坂さんとか、言論界の名だたる方がこの番組にすごく協力的にやってくださって、「田原だから出よう」という人もいましたからね。