米国の貿易赤字VS日本の貿易黒字

バブル崩壊で不況に陥った日本経済をさらに苦しめたのが日米貿易摩擦の激化と円高でした。日米貿易摩擦はすでに昭和50年代後半~60年代から表面化していましたが、昭和末期から平成にかけて深刻化していきました。当時、米国の議員が日本メーカーの家電製品をハンマーで叩き割る映像がテレビのニュースで流されるなど、日米関係は険悪な雰囲気に包まれました。この影響によって、自動車や家電など日本企業の競争力は低下していき、日本経済を一段と弱めることになったのでした。

  • 日本経済を苦しめた日米貿易摩擦と円高とは?

    日本経済を苦しめた日米貿易摩擦と円高とは?

日米摩擦の背景は、日本の対米輸出増加や日本企業の躍進によって米国の貿易赤字が拡大し米国企業の業績が悪化したことです。確かにその少し前のバブル時代まで日本の躍進は目覚ましく、高品質で低価格の「メイド・イン・ジャパン」は世界市場を席巻していました。このため日本は貿易黒字が拡大、逆に米国は貿易赤字が拡大する一方で、その最大の相手国が日本でした。

  • 米国の貿易赤字

    米国の貿易赤字

その代表例として、自動車をめぐる摩擦の動きを振り返ってみましょう。時計の針を昭和の1970~80年代に戻します。米国では石油危機をきっかけに燃費効率の良い日本車が消費者の人気を集め、米国向けの輸出が急増しました。逆にガソリン消費の多い米国車は敬遠されるようになって「ビッグスリー」と呼ばれた大手3社の業績が悪化し、中でもクライスラーは経営危機に陥り政府による債務保証でようやく倒産を免れるという事態が起きていました。

こうした情勢に対応して1981年(昭和56年)、日本の自動車業界は乗用車の対米輸出自主規制を開始したのでした。これは対米輸出の台数に上限を設け、各社の輸出の合計台数をその範囲内に収めるというもので、当初は年間168万台と設定されました(その後、230万台まで拡大され、1993年・平成5年まで続きました)。日本の自動車業界の「自主規制」という形をとっていますが、事実上は米国の自動車業界と米政府の要求によるものです。これに、後述する円高への対応と併せて日本各社は米国での現地生産に乗り出し、その規模を拡大していきました。

  • 日本の自動車の対米輸出と米現地生産

    日本の自動車の対米輸出と米現地生産

エスカレートする日米貿易摩擦

しかし、それでも日米摩擦は収まりません。現地生産車の米国での販売も好調で、日本車のシェアがますます高まったのです。米国は要求の重点を「日本市場での米国車販売拡大」に移し、「日本は米国で大量の車を売っているのに、日本で米国車が全く売れないのは不公平だ。日本は閉鎖的な市場を開放すべきだ」との主張を強めるようになりました。平成4年(1992年)には、ブッシュ(父)大統領がビッグスリーの首脳など米産業界の代表を引き連れて来日し、日本にプレッシャーをかけたこともありました(この来日は、同大統領が晩さん会で倒れた‟事件”として有名ですが)。

摩擦は自動車だけでなく、鉄鋼、半導体、スーパーコンピューターなどから、建設、流通、金融、サービスなどに至るまで広範囲にわたりました。米国はこれらの分野の閉鎖性は「非関税障壁」だとして、各種制度や商取引習慣、企業グループの系列などの見直しにまで踏み込んだ改善を求めました。それが進まないのは日本に構造的な問題があるからだとして、平成元年(1989年)にはこれらを包括的に交渉する日米構造協議をスタートさせました。同協議は名称を変えながら1995年(平成7年)頃まで続くことになります。

このような状態が何年も続くうちに、バブル崩壊で弱っていた日本経済はさらに力を削がれていったのでした。

追い討ちをかけた‟超円高”~95年に戦後最高値

これに追い討ちをかけたのが円高です。すでに昭和60年(1985年)のプラザ合意をきっかけに急速な円高が進んでいました。プラザ合意とは、当時G5と呼ばれた先進5カ国(米国、日本、西ドイツ、英国、フランス)の蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨークのプラザホテルで密かに開かれ、ドル高是正(つまりドル安)のために協調行動を取ることで合意したものです。これは、日本を特に標的にしたわけではなく、米国の貿易赤字と日本・西ドイツなどの貿易黒字という世界的な不均衡を是正するとともに、当時まで米国で目立っていたドル高の弊害を改善することがねらいでした。したがってG5の意図は、ドルが各通貨に対して緩やかに下落していくよう市場介入することにありました。

しかし現実の為替市場はその意図を超えてドル安が急激に進行し、日米貿易摩擦の激化が円高・ドル安に拍車をかけました。円相場はプラザ合意直前の1ドル=240円台から1987年には120円近くまで上昇した後、平成2年(1990年)に一時は160円台まで下落していました。

しかしその後は再び円高が鮮明となり、平成7年(1995年)4月には1ドル=79円台をつけ、戦後の最高値を更新するに至ったのでした。「超円高」という言葉も生まれたほどです。

もともと米国の貿易赤字拡大は米国からのドルの流出増加を意味しますから、ドル安要因です。ドル安になれば米国にとっては輸出増加に役立ちますから歓迎すべきことです。逆に円高は日本の輸出に不利になりますから、これも米国にとっては好材料となるわけです。このため米国は日米貿易交渉の圧力材料として円高を利用するようになりました。

クリントン大統領が円高要求発言

それを示す象徴的な出来事を私は今でもよく思い出します。平成5年(1993年)4月、当時の宮沢喜一首相が訪米し、同年1月に就任したばかりのビル・クリントン大統領と会談した時のことです。この首脳会談は、米国の新大統領と日本の首相の初顔合わせという意味合いがありましたが、単なる外交儀礼では終わらず、日米貿易不均衡が最大のテーマとなりました。クリントン大統領は宮沢首相に日本の黒字削減を強く求め、会談後の記者会見で同大統領は開口一番、「日本の黒字削減の具体策として第一に円高」と発言したのです。

当時、私はテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト(WBS)」のマーケットキャスターを務めていましたので、「大統領が円高を容認する発言をする可能性があり、それを受けて円高が進む可能性大」と予測していました。結果は「円高容認」どころか「円高要求」だったわけです。この予想以上の強硬姿勢に市場も鋭く反応しました。この記者会見直後に1ドル=112円台と当時の最高値を更新した後、そのまま一気に2年後の79円台まで突き進んでいきました。

米国の大統領が率先して「日本たたき(バッシング)」に走るという異例の展開となったのです。その後長年にわたって日本企業は国際競争力の低下に苦しめられることになります。もちろん日米貿易摩擦と円高だけが原因ではありませんが、その大きな要因となったことは間違いありません。

  • 円相場

    円相場

それにしても、米国がここまで日本に対して強硬姿勢を取った理由は何だったのでしょうか。日本経済の躍進によって米国が世界トップの座を脅かされたことへの危機感があったことは間違いないところですが、それでも同盟国に対する態度とは思えないほどの強硬姿勢でした。そこには実は、冷戦終結という歴史的背景があったのです。

冷戦終結については前号で見たとおりですが、冷戦時代には日本が対ソ連戦略の重要な要となっていたため米国は日本を全面的に支援していました。前述のようにまだ冷戦時代の1980年代から日米貿易摩擦は起きていましたが、どちらかと言えば個別産業分野ごとの局地戦の色彩が強かったのですが、冷戦終結後は米国にとって日本の戦略的重要性が低下したかに見えたのです。そんな中で米国にとって日本は「同盟国」というより「ライバル」あるいは「米国を脅かす危険な存在」と映るようになり、それなら「日本を本気でたたけ」というムードに変わっていったと言えます。

正反対に「米中蜜月」~中国の高度成長の始まり

特にクリントン政権はそうした姿勢が顕著でした。日本たたきを展開する一方で、中国との接近を図ったことにも、それは表れています。天安門事件後、中国が経済面での開放政策を打ち出したのに応じて中国との経済関係を深め、江沢民国家主席との相互訪問などで親密さをアピールしました。1998年(平成10年)にはクリントン大統領が中国を訪問し、江沢民主席と歓談したほか、9日間も滞在し6つの都市をめぐったことがありました。「米中蜜月」とまで言われたものです。

ところがこの時、同盟国の日本には立ち寄らず素通りでした。そのため「ジャパン・バッシング(日本たたき=bashing)」をもじって「ジャパン・パッシング(日本素通り=passing)」という言葉が生まれました。こうした中国への肩入れによって、1990年代後半から中国の急速な経済成長が始まったのです。クリントン政権は中国が1994年(平成6年)に行った人民元の大幅切り下げも認めています。これも中国の輸出増加を大いに助けました。日本に対しては円高を要求していたのと正反対です。

こうしてみると、日米貿易摩擦と円高が日本経済の弱体化をもたらしたのと入れ替わるように、中国経済の躍進をもたらしたことがよくわかります。今、中国が米国を脅かす存在となり、米中貿易戦争が起きていることを考えると、歴史の皮肉というか巡り合わせでしょうか。ある意味ではトランプ大統領はその総決算を試みているとの見方も成り立つかもしれません。

しかしこうした苦しい中で、日本も日米貿易摩擦と円高への対応を懸命に続け、その中から2つの新たな展開を見出しました。

その1つは、多くの日本企業が円高を乗り越えるため海外シフトと徹底したリストラを実行したことです。これによって現在のようにグローバルな事業展開を推進するとともに、円高への抵抗力もかつてに比べると強くなりました。時間はかかりましたが、その成果はここ数年の収益力強化となって表れています。

第2は、貿易摩擦に対して政府が先手を打って対処できるようになったことです。当時の日本はエスカレートし続ける米国の要求への対応に追われ、少しずつ譲歩していくのが精一杯でした。日本政府の対応が後手後手に回っていたのです。しかし現在のトランプ大統領の日本批判発言などに対して日本政府は冷静に対処し、今までのところは大きな問題に発展することは避けられています。これもかつての学習効果と言えるかもしれません。

今後もトランプ大統領の言動や政策には要注意ですので、平成時代の貿易摩擦についてしっかり知っておくことはますます重要になるでしょう。

執筆者プロフィール: 岡田 晃(おかだ あきら)

1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。