■新たなパターンの監督のなり方とは
2002年に公開された新海誠の『ほしのこえ』は個人制作作品だった。それは大きなインパクトがあった。今から振り返ると、それは2000年代前半の時代の気分を象徴する大きな出来事だった。
どうして個人制作がインパクトだったのか。
まず、大まかな傾向として、個人作家の作品はインディペンデントな経路を中心に流通し、内容もアニメーション表現そのものに重心が置かれた作品が多いということがある。表現形式も、TV・映画で主流のセルアニメ(ここではデジタルでエミュレーションされた“セルアニメ”も含む)ではない手法を採用したものが大半だ。逆にいうと、TVや映画といったメジャーな流通回路で消費されるアニメは、セルアニメが大半で、表現以上に物語を語ることに軸足が置かれているものが中心だ。
インディペンデント系作品とメジャー系作品の境界を具体的に見定めるのは難しいが、大きく見ればこのような違いがあることが、セルアニメの形式を使い、物語を演出で見せる『ほしのこえ』の立ち位置を特別なものに見せたのだ、 そしてこれは『ほしのこえ』だけの出来事ではなかった。
『ほしのこえ』が発表された同年にはロマのフ比嘉がやはり個人で制作した3DCG作品『URDA』をネット上で発表しているし、2005年には吉浦康裕が発表した『ペイル・コクーン』も個人制作である。いずれも物語を見せることに軸足のあるメジャー系作品だ。
この時期にこのような個人制作が成立したのか。それは、パソコンやデジタルツールの普及が背景にある。
ハード面では、1995年にwindows95が、1998年にはiMacが登場し、パーソナルコンピューターが一気に普及した。一方でソフト面では1990年に画像加工や描画に使うPhotoshop、1993年には現在アニメ撮影に多く使われているAfter Effectsが登場しており、PCの普及とともに、さまざまな人が使うようになっていった。3DCGソフトでは比較的安価なLightWaveやAnimation:Masterといったソフトが存在していた。こうした変化は、プロのアニメ制作現場において仕上・撮影の肯定が一気にデジタル化させていくことも後押ししたが、同時に個人によるデスクトップアニメーションの可能性を開いたのだった。
個人制作のニューウェーブへの注目とでもいうべき状況は、この2002年を皮切りに、その後も継続していく。宇木敦哉の『センコロール』(2009)、石田祐康の『フミコの告白』(2009)、山本蒼美の『ロボティカ*ロボティクス』(2010)といった作品が注目を浴びて、プロの現場と接点を持つことになる。
こうした個人制作作品が世に出る大きなきっかけとなったのが1パーソナルCGアニメを振興する団体DoGAによる「CGアニメコンテスト」だ。1989年から始まった同コンテストは、自主制作のCGアニメ作品を対象としたコンテスト、アートからエンターテインメントまで幅広い作品が集まった。
そしてその中から、1997年にはロマのフ比嘉が『ONE DAY, SOME GIRL』で、2000年には新海誠が『彼女と彼女の猫』でグランプリを受賞している。また入賞作を見れば、吉浦康裕(2003年『水のコトバ』)、山本蒼美(2010年『ロボティカ*ロボティクス』)、石田祐康(2010年『フミコの告白』)といった名前が並ぶ。ほかにも現在は個人作家、スタッフとして働く様々な人の名前が見つかる。
もちろん自主制作をしていてプロの世界に入った人は多い。多くの場合、そうした人は一スタッフからキャリアを積んでいく形で、アニメ業界で働くことになる。
ところが新海監督、吉浦監督、石田監督、山本監督はいずれも、スタッフとして働く経験がないか、あってもわずかのまま、映画やTV作品の監督になった。特に新海、吉浦、石田の3監督はそのまま自分のスタジオを構えて、ミニマムな制作体制から集団制作体制へと舵をきり、プロの監督として仕事を継続している。自主映画の監督がそのままプロの監督になるというパターンは実写映画ではしばしばあるが、アニメではこれは新たなパターンの監督のなり方だった。
■3人のクリエイターのニアミス
たとえば『けものフレンズ』の監督で知られるたつきも、2012年にサークル「irodori」名義で応募し、短編『ケムリクサ』で入賞を果たしている。たつき監督は、CGスタッフとしてさまざまな作品に参加のキャリアを持っているが、監督の道を開いたのは自主制作だったのだ。そして、2019年のたつき監督の最新作のタイトルは、いうまでもなく『ケムリクサ』だ。
『ほしのこえ』のインパクトは、最終的にこうした形で定着したのだった。 現在はstudioRFを主催するロマのフが、2014年に自らのキャリアを振り返ったインタビューを受けている。
それによると『URDA』の後、『警察戦車隊 TANK S.W.A.T. 01』を発表したロマのフは、『ペイル・コクーン』を完成させ、06年に福岡から上京してきた、吉浦監督とその事務所をシェアしていたという。その事務所の近所にはなんと、新海監督も住んでいて、買いに行った弁当店で出会うこともあったという。そのころはおそらく新海監督は翌年公開となる『秒速5センチメートル』を制作中のはずだ。
「CGアニメコンテスト」がなければおそらくは接点がなかったであろう3人のクリエイターのニアミス。この近すぎもせず遠すぎもしない不思議な距離感がおもしろい。それはデジタル化の普及と「CGアニメコンテスト」が生んだ時代の風景というものなのだろう。
近年、1980年代を舞台に、当時のアニメに影響を受けた若者の漫画がいくつか描かれている。もし平成の時代に「アニメの青春」を探すのならば、きっと2000年から始まる数年間になるに違いない。