時代が作品を呼ぶのか、時代の中から作品が生まれるのか。庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』の放送開始は1995年(平成7年)。同年に『エヴァ』が放送されたのはまったくの偶然だが、結果としてそれは「時代を象徴する出来事」として記憶されることになった。

▼ヒリヒリとした生々しさを獲得する『エヴァ』

『エヴァ』は「本当のこと」を本気で語ろうとした作品だった。

アニメは絵でしかない。絵で描かれたキャラクターを、どうしたら“本当の人間”と感じてもらうことができるのか。日本のTVアニメは、そこを軸に進化を重ねてきた。そのためには現実を観察し、その自然な印象をいかに抽出するかが大きな意味を持つ。それは自然主義的な発想といっていい。『エヴァ』のTVシリーズ前半もまた、さまざまなアニメと同様に、こうした自然主義的手法の延長線上で作られていた。

だが後半になると、その様相が変わる。より「本当のこと」を追い求めた結果、心の底に秘めた本音の「告白」やその裏返しとしての「自己否定」、あるいは「他人の理解不可能性」といったものが前面に出て、キャラクターをシビアに追いつめていく。これは、「本当のこと」を書こうとした結果、客観的な観察による自然主義小説から、「表に出せないような感情こそ『本当のこと』である」という姿勢の私小説が生まれた過程を連想させる。かくして(さまざまな状況も絡みつつ)、TVシリーズ最終回は、主人公・碇シンジの心のあり方にのみフォーカスして締めくくられた。

そして1997年夏にはTV最終2話を新たに語り直した『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』が公開される。ここでは、TVではオミットされたストーリーレベルでの顛末が描かれただけではなく、あたかも「TV版ではまだ不足だった」といわんばかりに一層過激に「本当のこと」が描かれる。

そのひとつが「シンジの自慰」と「シンジが口論の挙げ句アスカの首を絞める」というシーンの挿入であり、もうひとつが実写シーンへの挑戦だった。「自慰」と「首を絞める」は、まさに究極の「人にいえないような感情」の発露であるし、「実写」は、アニメキャラの図像そのものを捨ててまで「生身の肉体が持つ生々しさ」を「本当のこと」として示そうというものといえる(ただし撮影された実写シーンの多くは本編には採用されなかった)。

この「本当のこと」の追求には限りがない。「隠していた本音」は表出した瞬間に「表に出せる程度の本音」へと変質してしまうし、実写で生身の人間を撮っても、それは演技に過ぎない。ここにあるのは「本当のこと」というより、「本当のこと」を求め続ける無限運動だけなのだ。そして、この不毛にも思える自意識の無限運動に身を投じたからこそ『エヴァ』はヒリヒリとした生々しさを獲得することになった。

そして、この生々しさが、作品特有の「カタストロフ後の世界観」「オカルティックな用語の多様」が結びついた時、『エヴァ』は時代と不思議なシンクロを見せることになった。

『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(前島賢)では、「本書は社会評論の本ではないので、ごく一般的な理解を追う」と前置きのようにして、『エヴァ』の一般的な受容を次のようにまとめる。

「『エヴァ』のテレビ放映が開始された1995年は、バブルの崩壊から始まった経済不況(「平成不況」)の長期化が人々に実感され、経済大国・日本という神話に陰りが見え始めた時代だ。そんな最中、1月に阪神・淡路大震災、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件というふたつの衝撃的な事件が発生し、時代の閉塞感を決定的にする。そのような不安な時代のなかで、トラウマ、アダルトチルドレンなどの言葉が流行する俗流心理学ブームも起こり、「内面」「本当の自分」など、人々の関心が一気に内省化していた。 『エヴァ』は、そんな時代を鏡のように写し取った作品とされる。(略)そのような自閉的で、終末的で、カルト的な90年代の空気を見事に捉えた同時代性により、『エヴァ』は、アニメでありながら、いわゆるオタク層以外からも大きな支持を受ける。」

かくして『エヴァ』は結果的として「時代に呼ばれた作品」となったのである。

▼「近代の業」を描いた『もののけ姫』

そして、1997年夏の『Air/まごころを、君に』と並んで公開されたのが宮崎駿監督の『もののけ姫』である。同作は最終的に興行収入193億円を記録し、日本映画の歴代興行収入で現在も第4位にランクインしている。『エヴァ』が「時代に呼ばれた作品」ならば、『もののけ姫』は「時代の中から生まれた作品」だ。

1991年に公開された『おもひでぽろぽろ』(高畑勲監督)について、宮崎駿監督は次のように語っている。

「見終わった途端に『ああ、もうとうとう崖っぷちまできたな』っていうね。『これ以上やっちゃ駄目だ、これはもう極まった』というか(笑)。あれは要するに『百姓の嫁になれ』って演出が叫んじゃったわけですからね。東京で何をゴタゴタ言ってるんだよっていう。でも、我々は東京にいるしかないものですから。そこまで言われてしまったら、先に進めないっていうんじゃないんだけれど、もう等身大のキャラクターで作るっていうことに対して、いろんな功罪も含めて、極まったって感じがしましたね」(『風の帰る場所』)

「ジブリとしてはいま、次の作品の企画で方向の大転換をはからなければいけない時期にきているようなのです。時代もまた転換点に来たのではないかと、最近よく鈴木プロデューサーとも話しているんです。女の子ばかりでなく、少年を扱うにしても同じで、等身大の主人公の日常では、とり残されそうです。その時代の転換点をえぐりとるような作品を作るべきだということはわかっているんですが、具体的にどういう作品にすればよいか私たちはつかんでいません。おそらく誰にもわかっていない。私たちはいまそれを摸索している段階なんです。(後略)」(『ロマンアルバム おもひでぽろぽろ』)

宮崎監督は1991年の時点で既に、「等身大のキャラクターがどういう人生を選ぶか」が作品のテーマとなる時代は終わり、「時代の転換点を切り取る作品」と作らなくてはならないとはっきり決めているのである。

この決意を意識すると1992年公開の『紅の豚』を宮崎監督が「モラトリアムの作品」と呼んだ理由も推察できる。そこには「作るべき作品をまだ作っていない」という意識が滲んでいるのである。そして1997年にようやく『もののけ姫』が完成する(その間に宮崎監督は漫画『風の谷のナウシカ』を完結させているが、煩雑になるのでここでは割愛する)。

最終的に完成した『もののけ姫』は、室町時代を舞台にしつつも「近代の業」を描いた作品だった。産業革命以降の近代社会に住んでいる人間は、それ以前の、神=自然が生きていた時代に戻ることはできない。現代の人間はそのふたつの中で引き裂かれながら生きるしかない。このラストシーンは、我々はどういう時代に生きていて、どう生きることができるのかを描いている。いかに現代を掴むかという格闘から生まれた本作は「時代の中から生まれた作品」というのにふさわしい。

そこで描かれたのはひとつの諦念だ。だが、その諦念は、世界の矛盾をそのまま受け入れて生きるという前向きな諦念である。

思えば『まごころを君に』のラストに残るものも諦念だった。絶対にわかりあえない他人。だが、その他人がいることは希望でもある。人類を群体へと作り変える人類補完計画を選ばず、近代的な自我を持った個人として生きていくことを選んだ以上、そういう矛盾を受け入れるしかない。そういう諦念こそが人を生かすことができる。

つまり1997年に公開された2つの映画は、近代が生み出した矛盾に対して、「前向きの諦念という処方箋」を出して締めくくられているのである。それは数年後に控えた世紀末のその先を生きていくために必要なものであった。

■著者プロフィール
藤津亮太(ふじつ・りょうた)。1968年、静岡県生まれ。2000年よりフリー。Blue-rayブックレット、各種雑誌、WEB媒体などで執筆する。著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語』(一迅社)、『新聞に載った アニメレビュー』(Kindle同人誌)などがある。WEB連載は『アニメの門V』(アニメ!アニメ!)、『イマコレ!』’(ニジスタ)。毎月第3土曜には朝日カルチャーセンター新宿教室にて講座「アニメを読む」を実施中。

記事内イラスト担当:jimao
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