■「もう、自分探しはいいだろう」
「自分探し」という言葉は1980年代から存在する言葉のようだが、ぐっと普及したのは平成になってからのようだ"「自分探し」平成で定着 「解放」の尾崎豊から「探求」のミスチルへ"。という記事を見ると、1990年代に入ってから使用数がぐっと増えていることがわかる。
ここでいう「自分」とは当然、自分そのものではなく、「夢」や「やりたいこと」などを指している。そこで追い求められているのは「理想の自分」「本当の自分」で、そこには必然的に現在の自分に対する「本来の力を発揮できれば、自分は他のヤツとは違う"何者か"になれるんだ」という自己卑下と自尊心が入り混じったような複雑な感情も生まれることになる。
『UN-GO episode:0 因果論』はTVシリーズ『UN-GO』の前日譚にあたる中編だ。TVシリーズ放送中に劇場公開され、登場人物たちのこれまでを描きつつ、TVシリーズのクライマックスへの布石を打つ内容になっている。この作品の前半に描かれる若者像はまさに「旅」と「ボランティア」を通じて自分探しをしているというものだった。
主人公は、孤児として育ち、周囲の期待に応えるために水泳に打ち込んだが、そこで挫折。水泳を止めた後は、「外国の子供たちに笑顔を」と思って、東南アジアか南アジアあたりの国で映画の巡回上映を始めるが、現地の子供たちはゲームで遊んでいて映画で笑うのは、上映に失敗した時だけ。お金も尽き、最終的にはフィルムを切り刻んで栞にして、マーケットで土産物として売って日銭を稼ぐところまで落ちてしまう。
現地の子供たちが何を求めているかも知らないで巡回映画というアイデアをおこなってしまうあたりに、「夢」や「やりたいこと」だけが先行して、自分探しが空回りしてしまう様子が典型的に描かれている。
それは主人公と現地で合流するボランティア団体「戦場で歌をうたう会」にも共通している。
「(歌を通じて)紛争で疲れ切った子供たちに笑ってもらうことはできます」と建前をいう「戦場で歌をうたう会」のひとりに、主人公は言う。
「子供たちが笑うのはあなたたちが滑稽だからですよ。(略)あなたたちだって、本気で誰かのためになんて思っちゃいない。あなたたちは自分が……ちっぽけな存在だと認めなくないだけだ」
もちろんこの言葉は主人公自身の自己嫌悪から出てきた言葉だ。
「戦場で歌をうたう会」に雇われガイドをしている主人公の旧友は、はっきり言う。「もう、自分探しはいいだろう」。
主人公は「そんな、安っぽい言葉で、人の人生をまとめないでくれ」と応じるが、「やってることは、その安っぽい言葉まんまだろう」と逆に返される。この時に、作中で歌われているのが、大人になることを歌った武田鉄矢の「少年期」であるのが皮肉に響く。
こうした若者の様子は、1995年(平成7年)に出版された写真ルポ『アジアン・ジャパニーズ』(小林紀晴)に描かれた、アジアを旅する日本の若者たちの姿を想起させる。また2011年(平成23年)に出版された『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書/古市憲寿)は、参考にした書籍のひとつとしてインタビューで挙げられている。
■変態とクソムシ
一方、押見修造の同名漫画を、ロトスコープを使ってアニメ化した『惡の華』も、「自分探し」の物語のひとつのバリエーションとして見ることができる。
中学生の春日高男は、偶然の出来心から憧れている同級生、佐伯奈々子の体操着を盗んでしまう。それを見ていた問題児の仲村佐和は、それを理由に春日に"契約"を迫る。結果として春日は、佐伯との距離が近づく一方で、仲村とも秘密を共有する関係を深めていくことになる。
仲村がよく口にする言葉が「クソムシ」だ。自分の親も、クラスメイトも、この町に住む人間もみなクソムシばかり。クソムシとは、常識に縛られて、自分の中の欲望に無自覚な、凡庸な人間を言い表す彼女なりの言葉だ。そして、逆に「変態」は最高の意味を持つ。仲村は春日が変態であると直感し、だからこそ"契約"を迫ったのだ。
仲村がいう変態とは、自分の中の欲望(特に性的欲望)を自覚して、常識を踏みにじる勇気を持つ存在だ。変態は、そうやってほかの人にできないことをやるからこそ、クソムシとは別の存在でいられる。クラスで唯一、『惡の華』を愛読している春日は、戸惑い、ぶつかり合いながらもやがて仲村のこの"思想"を理解するようになる。それは春日の自分探しの過程ともいえる。
自分が特別な人間であるという確信を、「中二病」と笑うことは簡単だ。それは『因果論』で語られていたような、ちっぽけな自分を認めたくない、安っぽい行動だ。
だが「ちっぽけな自分を認めたくない、安っぽい行動」だからといって、それが切実なものでないと誰がいえるだろうか。安っぽいからこそ切実なものもまたある。『惡の華』はそこにぐっと食い込んでいく。ロトスコープ特有の不穏な――リアルに見えながら、対象が突如として絵として変容するかもしれないという緊張感(そこに見え隠れするのはいわゆる「アニメーションの原形質性」というべきものだ)――雰囲気は、その切実さをうまくアニメーションとして拾い上げていた。
『因果論』は、すべての事件が終わった後、主人公に名前が与えられる。それがTVシリーズで主人公が名乗っている、結城新十郎という名前なのだ。これはあたかも「『自分が何者か』などという問に答えはない」と言っているような幕切れだ。自分など、そうやって適当で間に合わせのもので十分なのだと『因果論』は一旦の結論を置いている。
一方、アニメ『惡の華』は仲村と春日が、互いの心の中にある「変態性」を認めあうというスタート地点が描かれて終わる。それは孤独な魂同士がはじめて同士になった瞬間だ。その2つの魂がどのような軌跡を歩むかは、原作がその後、7巻を費やして描いている。
自尊心と自己卑下にまみれながら、自分を探すこと。それを望遠鏡のように遠くから見つめると『UN-GO』のようになり、虫眼鏡で細部にまで降りていくと『惡の華』のようになるのだ。
藤津亮太(ふじつ・りょうた)。1968年、静岡県生まれ。2000年よりフリー。Blue-rayブックレット、各種雑誌、WEB媒体などで執筆する。著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語』(一迅社)、『新聞に載った アニメレビュー』(Kindle同人誌)などがある。WEB連載は『アニメの門V』(アニメ!アニメ!)、『イマコレ!』’(ニジスタ)。毎月第3土曜には朝日カルチャーセンター新宿教室にて講座「アニメを読む」を実施中。
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