盆と正月は、ご先祖様の墓参りを欠かしたことがない

僕は盆と正月に、ご先祖様の墓参りを欠かしたことがない人間である。また、大阪の実家に帰ったときは、真っ先に仏壇に手を合わせるようにもしている。

もちろん、子供のころは自らの意思ではなく、親に促されるまま墓参りをしていただけだ。さらに思春期から青年期にかけては、多くの若者がそうであるように僕もこうしたことを煩わしく感じていた。しかし、いつからか煩わしさはなくなり、現在に至っている。

こう書くと、僕がなんらかの宗派を熱心に信仰しているのではないかと思う方もいるかもしれないが、実際は俗説的な意味での無宗教だ。仏壇で浄土真宗の読経をすることはあるものの、親鸞聖人の教えについて詳しいわけではない。子供のころから家族に促されるがまま「南無阿弥陀仏」と唱えていたため、今もそれを継続しているだけである。

したがって、そこにあるのは亡き祖父に手を合わせたいという単純な心理だ。幼いころから共に暮らし、多くの愛情をかけてもらった亡き祖父の象徴が墓と仏壇だからこそ、定期的に挨拶しておきたい。それ以上の深い意味は、無学な自分にはわからない。わからないのだが、祖父を無碍にはできないという理由なら特に珍しいものでもないだろう。

また、現在の僕がいくら東京を拠点に仕事をしていようが、件の墓と実家が大阪にある以上、終(つい)の住処(すみか)は大阪だと思っている。僕は姉妹に挟まれた山田家の長男で、弟がいないため、すなわち男は僕一人だ。その僕が実家を捨てたら、あの家の、あの土地の行く末はどうなる。世襲や相続について詳しいわけではなく、そこになんらかのこだわりがあるわけでもないが、父や祖父が守り通してきた実家と土地に対する愛着なら人並みにある。これもあくまで人並みの話であるため、特に珍しい感情ではないだろう。

古い家の長男というものに、ある種の窮屈なイメージ

ところが、こういう話を知人・友人にすると、彼らは往々にして奇異な人間を見るような目をする。「古い家の長男」という点が引っかかるのか、「長男は大変だなあ」という台詞を口にして、自分がいかに自由奔放に生きているかということを語り出す。

昨年の盆もそうだった。僕がいつものように大阪で墓参りを終えて帰京すると、東京の何人かの知人が「ちゃんと墓参りするなんて偉いなあ。俺なんかもう何年も墓参りしてないよー」と言いつつも、その言葉の裏には「古い家の長男=面倒くさいものを背負っている」という若干の揶揄が感じられた。中には、山田家自体に「しがらみの多い家」というマイナスイメージを抱いている友人・知人もいるだろう。

どうやら現代の世間、特に東京では核家族の価値観が主流を占めつつあるからか、古い家の長男というものに、ある種の窮屈さを感じているようだ。そして、窮屈であることよりも自由であることのほうがイメージ的に良いのは当然で、だから巷では「次男坊は自由でいいよねー」「うちは核家族だから自由なもんだよ」などといった会話がしばしば交わされる。実家や墓のことを気にせず、好きな土地に住んで好きな土地で死ぬことが、なにも背負うものがない自由な生き方であると言わんばかりだ。

墓参りをしない自由もあれば、墓参りをする自由もある

しかし、僕はどうも納得がいかないのである。なぜなら、僕が大阪を終の住処にしたいと考えていることも、墓を守っていきたいと考えていることも、すべて僕の自由な意思から生まれたものであり、そこに窮屈さを感じたことはまるでない。周囲から「長男は大変だね」と言われることはよくあるが、自分では大変さを感じたこともないし、長男だからどうこうという気持ちになったこともない。単純に自分が自由に生きてきた結果が現在の心理であり、そんな僕がたまたま長男だっただけなのだ。

墓参りをしない自由もあれば、墓参りをする自由もある。極論、好きで旅行に行く人と同じ感覚で、僕は年に数回、好きで大阪の実家に行き、墓参りをしている。そこに「古い家の長男」であることとの関連性があるとすれば、そういう趣向の人間になるように育ったということだろう。繰り返すが、僕は"自由気まま"を感じながら生きている。

そして、僕以上に世間から同情の目を向けられているのが妻である。現在は専業主婦になっている妻だが、以前の職場の同僚からは「いつか旦那の実家に引っ越さなければならないんでしょ? 長男の嫁は大変だね」と声をかけられることが多く、やはり先述したマイナスイメージが蔓延していることに気づかされる。中には「わたしたち夫婦には、そういうしがらみがないから自由でいいわー」と露骨にアピールする輩もいるそうな。

確かに、妻に関しては僕もおおいに心配した。だから結婚前に、何度も自分の"自由気まま"な計画を説明し、妻に確認を試みた。その結果、妻が僕の"自由気まま"な考えに賛同してくれたからこそ、二人の今がある。結婚してからもそうだ。どこかで気が変わるといけないからと、何度も再確認をしたが、妻の気持ちは一度も変わらなかった。

きっと妻は現代にしては珍しいタイプの女性なのだろう。その稀少性についての自覚はあるものの、だからといって「窮屈な生活も厭わない女性」という紋切り型のイメージで同情論を語られることには抵抗がある。いわゆる「長男の嫁」のすべてが窮屈なわけではなく、自由な生き方の結果として「長男の嫁」を謳歌するケースもあるのだ。たぶん。

<作者プロフィール>
山田隆道(やまだ たかみち)
小説家・エッセイスト。1976年大阪府出身。早稲田大学卒業。『神童チェリー』『雑草女に敵なし!』『SimpleHeart』『芸能人に学ぶビジネス力』など著書多数。中でも『雑草女に敵なし!』はコミカライズもされた。また、最新刊の長編小説『虎がにじんだ夕暮れ』(PHP研究所)が、2012年10月25日に発売された。各種番組などのコメンテーター・MCとしても活動しており、私生活では愛妻・チーと愛犬・ポンポン丸と暮らすマイペースで偏屈な亭主。

オフィシャルブログ

山田隆道ツイッター