NHKで2020年から不定期に放送されSNSでも話題を集めた番組『業界怪談 中の⼈だけ知っている』が、体験者たちに徹底追加取材し、より恐ろしくより不可思議なノンフィクションホラーとして、NHK出版が書籍化。その業界にいれば当たり前のように周囲の間で知られていたり、経験したりするような出来事でも、その外にいる人間には知る由もない、ときに不思議で、ときに身の毛もよだつ体験談から、とっておきの怪談2篇を試し読みでご紹介します。
今回は、葬儀業界でのある怪談です。


(前回までのお話)自死した女性の遺体を棺に納めるため、現場へ向かった葬儀屋の「僕」が見たのは、飛び散った血とひきちぎられたような髪の毛の束、そして指の欠けたご遺体。壁にはありったけの憤怒を込めるような、血文字で「タカシシネ」と書かれていた…
コンセキノコスナ(1)
コンセキノコスナ(2)

「コンセキノコスナ」(3) /尾崎正則さん(仮名・葬儀会社経営)

コンセキノコスナ――痕跡残すな。

そう言われたことが頭から離れなかった。化粧道具など作業に使ったものもすべて捨てた。彼女に関わったすべてのものをこの世から消してしまわなければならない。そう思わずにいられなかったのだ。
それでも、あの部屋にしみついた腐敗臭は僕にまとわりついて、消えてくれなかった。原因はわかっている。靴下に彼女の長い髪の毛が巻きついていたのだ。あの部屋の痕跡を自宅に持ち込んでしまった気がして、ぞっとした。
処理ボックスには、会社から持ち帰ったお清めの塩を入念に振った。風呂に入ってすべてを洗い流し、線香を焚いてベッドに入ると、ようやく少しだけ全身の緊張が解けた。習慣である寝る前の読書をする余裕もないままうとうとしかかった頃、強烈なにおいに襲われた。
消し去ったはずの、あの部屋のにおいだ。
さらに僕は異常なほど汗をかいて、パジャマをぬらしていた。着替えなければと身体を起こそうとして、気づく。
動けない。
指先の一本すら微動だにできず、息もうまく吸うことができない。
これは夢だ。あるいは、身体の緊張がもたらす一時的な硬直だ。そのように理性的に判断しようとするのに、頭の片隅で警報が鳴り響き、ますます汗が流れだす。さらに――
ううううううう。
唸るような声が聞こえたかと思うと、般若のような形相をした女性が足元から這って出てきて、僕の足首を強くつかんでくる。
動くことも、叫ぶこともできず、ただ女性を凝視することしかできない。
うううううううう。
うううううううう。
うめき声の隙間に、彼女の呪詛のような言葉が漏れ出てくる。
コンセキノコスナ……コンセキノコスナ!
彼女が僕をベッドの下に引きずり込もうとした瞬間、奇妙なことに金縛りが解けた。僕はベッドのわきのパイプをとっさにつかむと、彼女に抵抗した。
ずり、ずりずり、ずり。
尋常ではない彼女の力に、少しずつ僕の身体はベッドの足元のほうへ下がっていく。だが、連れていかれるのはきっとベッドの下なんかじゃない。
この世ではないどこかだ。
そう悟った僕は、とっさに「残さないから!」と叫んだ。
「あなたの痕跡は残さない。お兄さんとも相談する。そうだ、お骨は海に撒くっていうのはどうだろう。海はきれいだし、あなたを苦しめる男もいない。安らかに、清らかに、眠ることができる。 だからお願いだ、未練を残さずあちらの世界へ旅立ってくれ!」
実際は声なんて出ていなくて、ただ念じていただけかもしれない。そもそも、そんなふうに理路整然と冷静に伝えられていたとも思えない。
それでも、何か通じるものがあったのだろう……と信じたい。
足を握る手をゆるめた、ような気がした次の瞬間、身体がふっと軽くなった。彼女の姿が消えたことを確認すると、僕はそのまま気絶するように眠りに落ちた。

  • ※画像はイメージです

翌朝、目が覚めると、ベッドの足元側にあるアーチ状のパイプの間に足が深く挟まれていた。自力で抜けだすのが困難なほど深く押し込められている姿を見た弟が、「何やってんの?」と呆れたように助けてくれた。
「よくあんなところに入り込めたね? 寝相が悪いってレベルじゃなくない?」
そもそも日頃の僕は、まるで死んでるんじゃないかと母親が不安になるほど静かに眠る人間だということは、弟もよく知っている。
「……変な夢を、見たんだ」
曖昧な笑みを浮かべて答えることしか僕にはできなかった。
けれど着替えようとして、目に留まった。両足首に、かすかな痛みとともに紫色の痣がくっきりと残されていた。それこそ、パイプよりももっと太い、たとえるならば女性の手の大きさくらいの痣が、ぐるりと円を描くように。
ああ、と思った。
やはり彼女は、ここにいたのだ。

出社すると、彼女のお兄さんから改めて、葬儀を依頼する電話があった。僕は夢のことは話さず、それとなくお兄さんに散骨の提案をした。
「そのほうがあの子も、ゆっくり眠れるかもしれませんね」
彼にも思うところがあったのかもしれない。そう言って、了承してくれた。

いまでもときどき、彼女のことを思い出す。どれだけ誠実に仕事をしたつもりでいても、思いもよらぬ形で故人の意志をないがしろにし、怒りを買うことはあるのだと、そのたびに胸に刻み込む。
だから、意味がないということではない。
どんなに心を尽くしても足りないからこそ、あきらめずに、寄り添い続けなければならないのだ。この人はどんな化粧をほどこしてもらいたいだろう。どんな表情を、最後に会いに来てくれた人たちに見せたいだろう。考えながら、目の前で眠る人に問いかける。
どうすれば、あなたの尊厳を最大限守れますか、と。
そういうとき、現れてくれたら楽なのにな、と思うこともある。
幽霊でもいいから僕の目の前に現れて、一緒に相談できたらいちばんいいのに。そのほうが、夢に出てきて脅されるよりは、ずっといい。

追記。
あれからしばらくして、とある不審死の現場に立ち会った。妻子のいる男が、マンションから飛び降りたという。よくあるといえばよくある話だ。
その男の名前は「タカシ」といった。
彼女と関係があったのかどうかは、僕は知らない。

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本連載は、 『業界怪談 中の人だけ知っている』より、一部を抜粋してご紹介しています。

『業界怪談 中の人だけ知っている』(NHK出版)
編者:NHK『業界怪談 中の人だけ知っている』制作班

怪奇体験から垣間見える、現代社会の実像と歪み――。同書は、2020年からNHKで不定期に放送されている人気番組『業界怪談 中の人だけ知っている』のシリーズ1~シリーズ3から、番組の再現ドラマを参考に、体験者たちひとりひとりに徹底追加取材し、怪談小説として細部にまでこだわって編み上げた全16篇からなる一冊。番組のファンはもちろん、怪談愛好家やホラー好きの人も、リアリティあふれる各業界の怪談小説から、体験者たちの見たもの、聞いたものを⼀緒に感じてみてはいかがでしょうか。Amazonで好評発売中です。