NHKで2020年から不定期に放送されSNSでも話題を集めた番組『業界怪談 中の⼈だけ知っている』が、体験者たちに徹底追加取材し、より恐ろしくより不可思議なノンフィクションホラーとして、NHK出版が書籍化。その業界にいれば当たり前のように周囲の間で知られていたり、経験したりするような出来事でも、その外にいる人間には知る由もない、ときに不思議で、ときに身の毛もよだつ体験談から、とっておきの怪談2篇を試し読みでご紹介します。
今回は、葬儀業界でのある怪談です。
「コンセキノコスナ」(1)/尾崎正則さん(仮名・葬儀会社経営)
夏になりかけの、暑い日の午後だった。
仕事の電話が来た。妹が亡くなっていたので、自宅に来てほしいという依頼だ。自死だ、ということはうすうす察せられた。おそらく、死後幾日かが経過しているのだろうということも。
今日の仕事を終え、帰り支度をしていたところだったが、ほかに出向ける人間もいない。僕は白衣を羽織り、化粧道具を持って、スタッフの運転する車に乗り込んだ。訪問医療の医師に見えるようちょっとした変装をするのは、葬儀屋としてのマナーだ。近所に余計な詮索をされて、悼むべき死の現場を踏み荒らすようなことがあってはならない。
車を降りたとき、かすかなにおいが鼻をついた。焼けた木材のような、かと思えばちょっと蒸れた湿気のあるような、独特のにおい。
腐敗臭だ。
僕はそれに導かれるように、現場のあるアパートに向かった。スマホなんて便利なもののない時代だ。地図を片手に指定された住所を自力で探すのが常だったけれど、ときどき確認しなくても、腐敗臭が濃厚に立ち込めている気配で、あそこだ、とわかることがある。気温の高い時期なら、なおさら。
そしてだいたい、そういう現場にはいるのだ。見慣れた銀色のライトバンと、身軽にどこへでも行けそうなカブ。警察の鑑識車両と、地域のおまわりさん。
何度も現場をともにしたことのある彼らは一服中で、僕を見ると、よ、と片手をあげた。僕は会釈した。
「いま、ちょうど実況見分が終わったとこだからさ、あとはよろしく頼みますわ」
僕が到着してようやく帰れる、というように彼らは煙草の火を消した。
不便だけど、おおらかな時代でもあった。屋外のどこででも煙草を吸えたし、本来ならば現場に足を踏み入れるはずのない葬儀屋が、こうして後を頼まれる。おおらかというよりはいいかげん、か。
本来ならば、葬儀屋の出番は検死された後、警察の安置所にご遺体が置かれた後だ。けれど僕らの住んでいる地域では、全国的に見ても変死体の数が多く、検死を担当する医師が決まるまでへたすると数日かかる、という状況だった。警察もそのすべてを預かってはいられない。かわりに、ご遺体を保護するのもまた、当時の葬儀屋の仕事だった。
もう、三十年以上も前の話だ。
その日はたまたま近くにいた医師が現場に寄って、すでに検死も終えたらしい。珍しいことだったけれど、僕は葬儀屋としての仕事、つまりはご遺体に化粧をほどこし、装束に着替えさせることだけに集中すればよかった。
『妹を、安らかな顔にしてやってください』
電話口でそう話していた依頼者である兄は、いまもご遺体に寄り添っているのだろうか。
僕はアパートの二階にある部屋に向かった。その物件は女性専用らしく、オートロックの玄関を抜けた先の中庭はきれいに整えられていて、全体的に清潔感が漂っていた。男所帯とはまた違う、生活のにおい。その中に、近づけば近づくほど息苦しくなるような腐臭がまざりあう。
ここまで近づくと、たぶん嗅ぎ取っているのは僕だけではない。近隣の住人は、生ゴミを溜めているとでも思ったことだろう。
でももしこれが冬で、誰かが異臭に気づくのが遅れていたら、ご遺体はもっと長くひとりぼっちで、部屋に横たわっていることとなったに違いない。
そんなことを思いながら、僕は指定された部屋のドアを開けた。「おじゃまします」と声をかけて靴を脱ぎ、静かにドアを閉める。廊下というには細くて短いキッチンのそなえつけられた通路を通って、リビングに向かう。よくある1Kの間取りだ。通路との境目にドアがないかわりに、しゃらしゃらと鳴りそうなピンク色のすだれがかかっていた。
それを何気なくくぐろうとしたとき、ぐしゃり、とも、べちょり、とも、つかない不快な感覚が、靴下越しに左足の裏に張りついた。
「……ひ」
思わず、声が漏れた。
古びた十円玉のような色をした、水よりも粘度のある液体。見慣れた、濃い赤。
息を吞んだ。
部屋の中は文字通り血が飛び散っていた。床にも、壁にも、そしてベッドで横たわっている、髪の長い女性の身体にも。
異様としか言いようがなかった。
床中に飛び散った血は誰も避けようがなかったのだろう。鑑識の人たちが踏んだ足跡がくっきりと残されていて、ひきちぎられたような髪の毛がそこらじゅうに散らばり、毛玉のようになっていた。ご遺体を見れば、右手の人差し指が真っ赤に染まり、そして長さが、ほかの指に比べて少し欠けている。
自分で食いちぎったのだ、ということはすぐにわかった。その指で、壁に文字を書いたのだということも。
……続きます。
本連載は、 『業界怪談 中の人だけ知っている』より、一部を抜粋してご紹介しています。
『業界怪談 中の人だけ知っている』(NHK出版)
編者:NHK『業界怪談 中の人だけ知っている』制作班
怪奇体験から垣間見える、現代社会の実像と歪み――。同書は、2020年からNHKで不定期に放送されている人気番組『業界怪談 中の人だけ知っている』のシリーズ1~シリーズ3から、番組の再現ドラマを参考に、体験者たちひとりひとりに徹底追加取材し、怪談小説として細部にまでこだわって編み上げた全16篇からなる一冊。番組のファンはもちろん、怪談愛好家やホラー好きの人も、リアリティあふれる各業界の怪談小説から、体験者たちの見たもの、聞いたものを⼀緒に感じてみてはいかがでしょうか。Amazonで好評発売中です。