音楽を聴くようになった。ジャズばかり聴いている。きっかけは一枚のCDだった。私にはピアニストの義姉がいる。といっても、有名なアーティストというわけではなく、大手企業合唱団の伴奏やピアノ教室の先生をして生計を立てている。収入のほとんどは自身のレベルを上げるためのレッスン料に消えているらしい。とはいえ、合唱団はテレビに映ったこともあるし、CDも出している、というのが妹である私の自慢だ。独身で牧瀬里穂似の美人な義姉は、もっと世間から注目されてもいいのではないかと私は思っている。余計なお世話だけれど。
家には義姉のおふるであろうCDがころがっている。義姉が処分したものがウチにやってきたものだ。我が家は義姉のゴミバコでもあるのだ。そのなかの一枚、『ケルン・コンサート』。ドイツのケルンという街で行われたピアノのコンサートを収録したものだ。名前も知らないアーティストだが、むちゃくちゃピアノが上手い。私は引き込まれるように、演奏者の音に耳を傾けた。でもこのCDには謎があった。義姉はクラシックの人なのだが、このアルバムはクラシックに聴こえない。音色は澄んでいるけれど、使っている音はジャズのように聴こえる。良くわからないまま、このCDは私にとって謎のピアニストが演奏するお気に入りの一枚となった。人は秘密めいたことが大好きだ。自分だけが知っている謎のアーティストがいると、それだけで単調な毎日が面白くなる。思い出したように私は『ケルン・コンサート』を聴きかえし、いい気分になっていた。
秘密が秘密でなくなった日
話は変わるが、今回紹介する商品は骨伝導式スピーカーシステム「音枕」RLX-P1。商品名の通り音が鳴る枕で、寝ながら音楽を聴くためにさまざまな工夫が凝らされている。この枕を買ったのは、もっと、音楽を聴きたいなのに時間がない。ならば、寝ながら聴いてしまおう! そんな欲求からだ。一緒に寝ている娘が音で目が覚めないように静かにしてあげたい。でも、ヘッドセットやイヤホンを装着したまま寝るのは落ち着かない。なにか良い方法はないだろうか。そんな願いにこたえてくれる枕なのである。
ある日、ジャズに関するブログを読んで気づいたことがある。私が秘密にしていたアーティストはキース・ジャレットというジャズピアニストだということがわかった。どうやら、ものすごく有名な人のようだ。クラシックでいったらチャイコフスキーやドヴォルザークとかラヴェルとか。ジャズをやっている人なら誰でもが知っている謎でもなんでもないピアニストだったのだ。私の秘密の楽しみは、はかなくしぼんでいった。でも、このアルバムが好きだという気持ちは変わらない。せっかくなので、キースの『Still Live』というアルバムを聴いてみた。最後の一曲をのぞいて、私は聴いている間、ずっと笑顔になった。それから、憑かれたようにジャズを聴き始めた。
なぜ人は本を読んで泣くのか
再び話は変わるが、すこし前に泣ける本が流行った。泣ける本は嫌いじゃない。著者の術中にはまっているのはわかっていながらも泣いてしまうのだ。ただ、もっといえば私が好きなのは泣けない本で泣くことなのだ。例えば、『I'm sorry,mama.』(桐野 夏生著)。殺人、うそつき、盗みなど、主人公の女性を通して人間の邪悪さ、陰険さなど負の部分が描かれた作品なのだけれど、amazonのカスタマーレビューを見ても「泣けた」と言う人はいない。でも、私はこの本を読んでいる間中、涙が止まらなかった。
この小説が悲しいのは、主人公が叫んでいるからだ。彼女はいわゆる最低でクズと呼ばれる人間。平気で人を傷つけるし自己中心。モラルとか、思いやりとか全くない、わがまま放題な人間なのだ。それでも、彼女は叫ぶ。
「こんなにひどい私でも愛してくれる? こんな私だけど、愛しておくれ」と。その叫びが悲しいのだ。
ジャズを聴いていると、『I'm sorry,mama.』を読んでいるときの気持ちになることがある。きのうは《ラヴァー・マン『ホワッツ・ニュー』》を聴いてずっと私は泣いていた。一部のジャズ・アーティストも、小説の主人公みたいにひどい生活をしている。統合失調にアル中、ヤク中の三重苦をはじめ、麻薬の売人に襲撃されて上唇とアゴを叩き割られるといったエピソードを耳にする。罵り、口喧嘩なんて、しょっちゅうあったのだろう。これらは誇張されて伝えられている部分もあるのかもしれないけれど、人生なんでもアリだと思っている私でさえ、そこまでしなくても…、と思ってしまうものがある。
彼らは自分が生きていても良いのだ、ということを確かめようとしているかのように、尖がってまわりを傷つける。それでも愛されることを知って生きる原動力を得ようとしているように聴こえるのだ。
そんなにまわりを傷つけなくても大丈夫だよ。あなたは愛されている。伝えたい私の気持ちがこみ上げてきて、涙がこぼれてしまうのだ。「音枕」の向こうで奏でるアーティスには会ったこともないのだけれど。もちろん、ジャズを演奏する人の中には、まっとうな人もいる。多分、数はまともなほうが多いだろう。そんなことを思いながら、「音枕」を使っているのだった。詳細の機能は次回。
イラスト:YO-CO