FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「日銀のゼロ金利政策」を解説します。

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  • 日銀「史上最大の失敗」とは?

    日銀「史上最大の失敗」とは?

日本銀行(日銀)は、2000年8月、約1年半続いたゼロ金利政策の解除を決めました。当時、米ドル/円は、年初の1米ドル=101円程度から、110円前後まで米ドル高・円安へ戻していました。そして、5月にかけて3,000ポイント割れ寸前まで暴落した米ナスダック指数も、7月にかけて最大で3割反発し、4,000ポイント台を回復しました。

円高、株安ともにリスクが後退し、日銀のゼロ金利解除という「利上げ」の障害はなくなったと判断したのでしょう。しかし、結果的にはそれは最悪のタイミング、ある意味では日銀史上屈指といってもよいほどの失策になったのです。

日銀が「間違った」理由とは?

結果的に見ると、2000年8月、この日銀のゼロ金利解除の前に、米ナスダック指数は暴落からの反発が終わっていました。3月に5,000ポイント台から暴落が始まった米ナスダック指数は、5月に3,000ポイント割れ寸前で下落一段落となったものの、7月には4,000ポイント台を回復したところで、反発も一巡となっていたのです。

そして8月、日銀は利上げに踏み切りました。しかし、米ナスダック指数は間もなく下落が再燃、10月には5月に記録した安値を更新し、そして年末までに2,000ポイント割れに迫る一段安となったのです。

  • 【図表】米ナスダック指数と日銀のゼロ金利政策(1990~2002年)(出所;リフィニティブ・データよりマネックス証券が作成)

    【図表】米ナスダック指数と日銀のゼロ金利政策(1990~2002年)(出所;リフィニティブ・データよりマネックス証券が作成)

結果的に見ると、日銀のゼロ金利解除という「利上げ」が、ITバブル破裂の株暴落「第二幕」のトリガーになったようでした。日銀を弁護するなら、これまで見てきたように、株「バブル破裂」には一定のパターンがあり、もし2000年8月に日銀がゼロ金利解除を行わなかったとしても、ITバブル破裂の株暴落は、「第二幕」に向かっただろうと思います。

ただそれはそれとして、今から振り返ると、ITバブル破裂の株暴落は、米ナスダック指数で見ても2000年3月から始まっていました。日銀がゼロ金利解除を決めた時には、すでに半年近くも経っていたのに、その中で「利上げ」を敢行したのは、日銀としてバブル破裂との認識がなかったということでしょう。日銀も認識の間違いを後悔したかもしれません。ただし、悔やんでも悔やみきれないほど、相場の見極めは難しく、そのことを示したエピソードだったともいえるでしょう。

他方、政策は結果責任でもあります。日銀ゼロ金利解除の後から、上述のようにITバブル破裂の世界的な株暴落第二幕が広がったことで、それは日銀に対しても新たな政策対応を強く迫るものとなりました。日銀は、2001年になると、再びゼロ金利政策に戻すことになりました。宿願だっただろうゼロ金利解除から、ほんの半年でのゼロ金利復帰は、政策当局者からすると政策判断ミスを自ら認めるようで、屈辱的だったのではないでしょうか。

ただ、ITバブル破裂、株暴落第二幕といった「荒ぶるマーケット」は、「ゼロ金利解除は間違いでしたから元に戻します」では収まる状況ではなくなっていました。米国発のITバブル破裂、それはさすがにこの頃には一般的な認識となっていました。その中でも世界的な株安、そして日本の株安は止まりませんでした。

それは、まさに「ゼロ金利以上の金融緩和」を求める動きだったのです。こういった中で、先進国史上初のゼロ金利政策を行った日銀は、さらに先進国史上初の非伝統的金融緩和、量的緩和に踏み切ることとなったのです。