FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「1999年前後の世の中の動き」を解説します。
IT革命による米経済の生産性の拡大を中心とした、これまでの景気循環の説明を超えた「ニュー・エコノミー」。そういった説明自体は、2020年の今から振り返っても、とくにおかしい感じはないでしょう。では、なぜ株高は続かず、やがて暴落に向かうところとなったのでしょうか。
それを考える上で、結果としてITバブルの株高がクライマックスに向かった1999年前後の動きを検証してみたいと思います。
最終局面で登場した「Y2K」
1999年、ITバブルの株高が結果的にクライマックスに向かう前、1998年夏に世界的に株は暴落しました。LTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)に代表された大手ヘッジファンドの実質破綻などにより、世界的な金融危機に急襲された結果でした。
こういった中で、「米経済だけが繁栄のオアシスでいられるだろうか?」と述べた当時のグリーンスパンFRB(米連邦準備制度理事会)議長は、国内の景気回復に対して「予防的」、「保険的」利下げを行いました。結果的には、その後から上述のような、1999年のITバブルの株高クライマックスに向かったのでした。
そして、同じ1999年、すでに述べたように、日本は「ある事情」から史上初のゼロ金利政策を決定、そしてまた次の「ある事情」からそれを2000年にかけて継続することになりました。そういったことも、上述のようにITバブルの株高がクライマックスに向かう中で起きた事実でした。
ただ、そんな日本とは異なり、米国は上述の1998年夏に行った3カ月連続利下げの後、1999年に入り株高が大きく進むと、一転利上げに転じました。1998年に急襲された金融危機への「緊急避難措置」解除に動いたということでしょう。ところが、米ナスダック指数を筆頭に、株高はそのまま2000年にかけて続いたのです。
利上げとは、株高に対するブレーキの役割だといえるでしょう。では、なぜ1999年の途中からFRBが利上げというブレーキを踏み続ける中でも、米国などの株高は続いたのでしょうか。それは、「ブレーキの壊れた自動車」のように、まさにクラッシュで止まる以外ない、「バブル崩壊」の前兆だったのか!?
それは十分あったかもしれませんが、もう一つ、ITバブルの株高クライマックスにおいて、最後に背中を押す役割となったのは、いわゆるY2K(コンピューター2000年問題)だったのでしょう。
この頃、ミレニアム(1000年紀)を前にして、西暦が1900年台から2000年台に変わることへ、コンピューターは対応し切れていない可能性が指摘されていました。つまり、西暦が2000年に変わった瞬間に、前代未聞のコンピューター誤作動が深刻な問題を引き起こすリスクがある―――。
そういったことから、1999年に実施された3度の米利上げも、いざという場合のY2K対応の緊急資金供給の用意がある中では、ある意味で「穴のあいたバケツ」のように軽視されていたのかもしれません。
以上見てきたように、1998年夏のFRBによる「保険的利下げ」、そして1999年に入ると日本のゼロ金利政策及びその長期化、さらに「Y2K」問題。これらがきっかけとなり、また1年余りで米ナスダック指数が2.5倍も高騰したことを正当化する「口実」もでき、世界的な株高は2000年に突入、いよいよ21世紀に持ち越されたのでした。
西暦が2000年に変わった途端、コンピューターの誤作動で世界が大混乱に陥るというY2Kショックは杞憂に終わりました。それなら、緊急避難的な資金供給の可能性は消えたわけです。
そういった中で、NYダウは2000年1月から下落に向かいました。ただ、米ナスダック指数はさらに上昇が続いたのです。「Y2Kに絡んだ資金供給を拠り所とした株高ではない。この株高はバブルでも何でもない、本物だ!!」。そんな強気な声が再拡大する中で、2000年3月から米ナスダック指数は暴落に向かったのでした。