FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「超円高と超超円高の違い」を解説します。
これまで円高阻止の名勝負として、過去2回あった、1米ドル=100円を超えた円高、「超円高」の攻防について書いてきました。1つは、戦後初めて「超円高」となった1990年代半ばの局面、そしてもう1つは、それをさらに上回る円高、「超超円高」となった2011年にかけての局面でした。
両者は、約15年もの長い時の隔たりがあったためかもしれませんが、とくに円高阻止の具体的な行動である為替市場の手法では大きな違いがありました。
「ミスター円」前後の違い、それは時代の反映でもあった!?
1995年にかけて1米ドル=80円まで円高となったケースを「超円高」、そして2011年にかけてその円最高値を更新し、1米ドル=75円まで円高となったケースを「超超円高」とします。それを踏まえ、両者の為替介入(円売り)を比較すると、かなり違うものだったのです。
実は、一連の円高阻止局面での円売り介入の累計額は、前者が11兆円、後者は16兆円と、極端に違うというものではありませんでした。「極端に違う」ものだったのは、介入回数、平均介入額、1回当たりの介入最高額などでした。
たとえば、介入1回当たりの平均額は、後者は前者のほぼ3倍、そして、最高介入額はほほ10倍でした。こんなふうに見ると、同じ円高阻止姿勢でも、超円高と超超円高局面では全く手法が異なっていたようです。では、なぜそうなったか?
それには、やはり「ミスター円」、異色官僚の榊原英資氏の影響を否定することはできないでしょう。「超円高」局面でも、榊原氏が主導した頃から介入額は急増しました。また、榊原氏は、その後円高阻止から円安阻止、つまり円売り介入から円買い介入も行うことになるのですが、実は1998年に行った円売り介入額は2兆円以上となり、当時としては桁外れ、まさに、「超超円高」介入となるまでの最高介入額だったのです。
為替介入の手法だけを見ても、「ミスター円」前後は明確に違ったといえそうです。異色官僚とされたのも伊達じゃないですね、「異色介入」でもあったのですから。それについて、榊原氏自身が表現したのは、「勝つ介入」ということでした。
日本の為替政策は、ともすれば「国民の円高阻止期待を受け介入しています」のような、「アリバイ工作」の感じが強くあったところ、それと真逆の感じを伝える「勝つ介入」。こじつけではありますが、それは日本経済のバブルが崩壊し、建前社会が通用せず、名実ともに実力主義に移行した時代を反映していたようにも思います。
そして、それから10年以上も過ぎた「超超円高」局面での日本の通貨当局の円売り介入は、回数が限定され、その上で1回当たりの介入額が大規模化するといった具合で、「ミスター円」介入以上に効率性を追求した形となっていました。
それは、明らかに「ミスター円」の「勝つ介入」思想を引き継いだ結果だったのではないでしょうか。これまで見てきたように、「ミスター円」榊原氏は、異色官僚との名前に恥じない海千山千の世界の金融市場参加者を驚かせるほどの「革命児」でもあり、その手法をさらに進化させた結果が、「超超円高」介入だったといえるかもしれません。
ただ、皮肉な見方をすると、「超円高」当時より、「超超円高」局面では、より効率性を重視せざるをえないほどに、日本経済に余裕がなくなり始めていたということはなかったか、「絶望のニッポン」。しかし、そういった中で「アベノミクス」の株高・円安へ向かうところとなったのは、すでに「アベノミクス編」で書いたところです。
絶望という「陰の極」、一方楽観という「陽の極」。結果的にそれらを往来するという意味では相場の神髄とは循環的ということを再確認させられます。この円高阻止の2つの名勝負にはそんな意味もあるのではないでしょうか。