FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「超円高の大反転劇」を解説します。
結果的に、戦後初めて1米ドル=100円を超えた円高である「超円高」は、1995年4月、80円で一段落となりました。その後は、前にも少し書いたように、「円高は構造的変化の結果」といった意見を尻目に、ほんの3年程度の短期間で1米ドル=150円近くまで、なんと60円以上もの大幅な円安に向かいました。
本題ではないので深追いしませんが、構造的円高なら、そのような短期間で150円近くまで円安に戻ったことをどう説明するのでしょうか。これまで何度も述べてきたように、相場変動の説明で、循環的変化と構造的変化を混同するようになる局面は要注意だと思います。それはともかく、「超円高」の反転には、やはりこの人の役割がとても大きかったのでしょう。
異色官僚「サプライズ人事」と政治改革の関係
上述のように、「超円高」のピークは、1995年4月、ザラ場(日中の取引値)79.75円、日足終値80円でした。そのきっかけとなったのは、G7(先進7カ国財務相会議)の声明でした。その中では「リバーサル」、つまりこの米ドル安相場を反転させることでG7が合意したという内容になっていました。
この声明をきっかけに、米ドル安・円高は止まりましたが、米ドル高、円安への「反転(リバーサル)」はすぐには起こりませんでした。この「反転」が現実になったのは、客観的に見てもやはりこの人物の関わりが大きかったのでしょう。
日本の為替政策や通貨政策は財務省が主管します。その最高責任者は財務官、そしてナンバー2は国際局長になります。この財務省通貨政策人事で、1995年夏、サプライズが起こったのです。
「財務省国際局長(当時の呼び名は国際金融局長)に榊原英資氏を任命」。それは、霞が関高級官僚人事のマスコミ報道では、まだ「さざ波」程度の扱いでした。ただ、財務省をよく知る人たち、さらに榊原氏を知る人たちからすると、とても「さざ波」なんてものではないサプライズだったでしょう。
以前も述べたように、この当時は、世界的にポスト冷戦、旧体制からの変革が強く求められていました。その意味では、日本の官僚機構、さらにその頂点に君臨しているとされた財務省は、ある意味で「旧体制のど真ん中」。そのような財務省において、サプライズ人事の余地は基本的にはとても牙城が高かったでしょう。
榊原氏は、かつて政治家への転身も目指し、対米交渉では米国側から徹底的に嫌われたタフ・ネゴシエーターであり、エリート官僚の範疇から思いっきりはみ出た、まさに異色官僚だったのです。では、なぜそんな異色官僚にご指名となったのか?
様々な説がある中で、最も有力と思われるのは、当時の日本における政治革命が影響したということでしょう。当時は、ポスト冷戦で、日本の政治体制も転換期にありました。最もわかりやすいのが「改革派vs守旧派」の図式です。
その中で、1995年当時の政権は社会党首班の自社さ連立政権(自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権)でした。そして財務大臣(当時は大蔵大臣)は、「小さくてもピリリと辛い」、スモール・イズ・ビューティフルを信条とした新党さきがけの党首、武村さんという方でした。
そんな武村蔵相の下、大蔵省(現財務省)の事務方トップである事務次官は、「10年に一人の大物」とされた斎藤次郎という人でしたが、彼にはもう一つ、自社さ連立政権にとっての最大のライバルと見られた旧自民党大物、小沢一郎氏との親密な関係が知られていたのでした。
小沢さんも、自民党を飛び出した当時は「改革派のリーダー」のように位置付けられていましたが、反自民党で一致しても社会党や新党さきがけとは基本的に主義主張が異なります。こういった中で、日本の政治革命も、この頃には「改革派vs守旧派」から「親小沢vs反小沢」のように変質していたのです。
以上を踏まえると、当時の財務省は、大臣が「反小沢」、事務方トップが「親小沢」という対立の構図にあったことがわかるでしょう。財務省(当時は大蔵省)の幹部人事権は、基本的には事務方トップの事務次官にありますが、定例の夏の幹部人事前に、武村蔵相は斎藤次官を解任します。
これを受けて、幹部人事権を握った武村大臣が、1米ドル=80円で行った幹部人事の目玉、それこそ異色官僚の通貨政策担当ナンバー2抜擢への立役者となったのでしょう。