FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「1990年代半ばの『超円高』相場」を解説します。
変動相場制度(フリー・フロート制度)、つまり、為替相場が1米ドル=100円など固定されるのではなく、現在のように自由に変動するようになってから初めて、1米ドル=100円を超える円高、「超円高」が起こったのは1990年代半ばにかけての頃でした。この時記録した円最高値(米ドル最安値)は、1995年4月の1米ドル=79.75円です。その後、この記録を更新し、2011年10月に75円まで進んだ円高を私は「超超円高」と呼び、前回までそれについて書いてきました。
そして今回から、時代を逆戻りして、1990年代半ばの「超円高」相場について書いてみたいと思います。まず指摘するのは、この「超円高」は、米国が政治的に仕掛けたことがきっかけで起こり、円高が進む中で日本の政治体制が大きく転換するといった具合に、政治的にもきわめて大きな影響があったものだということです。
ポスト冷戦、仕掛けたのは米クリントン政権
そもそものきっかけは、1993年1月の米クリントン政権誕生でした。クリントン政権は、1989年ベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦終了を受けて、優先的な政策課題として経済的不均衡解消を目指し、その中で、当時世界一の貿易黒字大国だった日本に対して円高を求めたのです。
この説明、「スーッ」と入ってきましたか? 念のため、改めて解説します。
東西対立時、西側の中心だった米国は軍事費などを膨張させた結果財政赤字が拡大、一方で経常・貿易収支の赤字も拡大し、「双子の赤字」が深刻な問題となっていました。このため、東西冷戦の勝利を受けて、「双子の赤字」解消に取り組んだのがクリントン政権だったわけです。これで伝わったのかまだ微妙ですが、少しずつ前に進みましょう。
当時、このような動きを目の当たりにしながら、とても印象的だったのは、クリントン政権幹部たちのじつに直截的な言動でした。たとえば、クリントン政権与党である民主党の大物に下院議長のフォーリーという人がいました。記者から彼に「強い米ドルを望むか?」といった質問が出た一幕など、今でも鮮明に甦ってきます。
これは、クリントン政権は日米の貿易不均衡是正のため円高を求めているようだが、それを裏返せば米ドル安ということになるので、米国の伝統的なストロング・ダラー(強い米ドル)政策の転換なのか、その言質を引き出そうとする、やや意地悪な質問なのですが、これに対する回答が「強い円を望む」でした。強い米ドル政策は変わらないが、それ以上に貿易不均衡解消のための強い円を望むのだということですね。
そして、最初のハイライトは、クリントン大統領就任後最初の日米首脳会談でのこと。当時の日本の総理大臣は宮澤喜一氏です。戦後の日米外交に深く関わってきた超大ベテラン政治家の宮沢総理と、まだ40代、ある意味若輩政治家のクリントン大統領。
首脳会談終了後の記者会見に2人並んで向かうときの表情は、宮沢総理は満面ニコニコ、対するクリントン大統領は強張っていました。そして硬い表情のクリントン大統領が最初に発したのは「日米の貿易不均衡解消に第一に有効なのは円高」という一言でした。
ストレート過ぎて、腰が抜けるほど驚いたことを覚えています。要するに、クリントン大統領の硬い表情なども、全て演出だったのです。このときは、貿易不均衡解消策を3つか4つ挙げたのですが、「第一は円高」とするとインパクトありますよね。
手前みそになりますが、私はセミナーなどで冒頭に結論を話すスタイルを、もう20年以上も基本にしてきました。最初に最も重要な結論をもってくると、聞く人たちにも響きやすいじゃないですか。
私のことはそれくらいにして、クリントン政権は、冷戦が終わったから、これからは経済問題に取り組む。その第一は日米貿易不均衡の解消。そのためには円高が有効。そういったとてもシンプルな理屈を、なるべく演出的にもシンプルに伝えるように考え動いたのでしょう。
それに対し、為替相場もとても素直に反応しました。クリントン政権発足となった1993年1月に1米ドル=125円程度だった米ドル/円は、早々にそれまでの米ドル安値(円高値)を更新すると、同年8月には100円割れ寸前まで一段安(円一段高)となったのです。しかし、すんなり100円割れ、つまり「超円高」とはなりませんでした。それは、次回で詳述しますが、おそらく日本の政治体制の歴史的転換の影響があったのでしょう。