文字修業のはじまり
履歴書の文字が認められ、実技試験に合格して採用されたとはいえ、活字デザインについては、橋本さんはまるっきり未経験者の状態だった。
「原字のゲの字も、活字のカの字もわからない。19歳のぼくはなにも知りませんでしたが、いま思えばそれがよかったのかもしれない。言われたことが全部すんなりと自分のなかに入っていくわけですから。一度自分でやってみて、ダメと思えば直せばいい。そうやって、言われたとおりにやってみて、自分で精査する能力というのが身についたのかもしれません」
しかし、素人がすぐにできるほど、活字デザインは簡単な仕事ではない。最初の3ヵ月ほどは、文字修業をして過ごしたという。
鉛筆でスケッチし、烏口や面相筆と呼ばれる細筆と雲形定規などをもちいて輪郭をとり、中を塗りつぶして墨入れする。それを最後にポスターカラーのホワイトで修正して仕上げる、というひととおりの流れを学んだ。
「最初に明朝体で『一』、その次に『永』という字ばかりを描き続けました」
なぜ「永」なのかというと、この文字は「永字八法(えいじはっぽう)」といって、一文字のなかに書道で用いられる8つの筆法が含まれており、この文字を習得すれば、ほとんどすべての漢字の上達につながるといわれているからだ。
「『一』は比較的簡単に終わったんです。『線の太さは何mmにしてください』『ウロコはこういう形にしてください』と言われて、すぐにできた。ところが『永』は進まない。まず、上の『丶』ひとつとってみても、1週間やっても合格しないんです」
「丶」だけで1週間以上である。
「実は点というのは千差万別のかたちがあり、とても難しいものだったんです。長い短いもさまざま、立っているか寝ているかという角度や丸みもさまざま。横線縦線は、漢字であればそこまで多様ではないんですが、点のかたちはキリがない。しかも、置く場所がすこしずれるだけで、文字の表情がおおきく変わってしまう」
素人考えでは、点のかたちなどはそれほど気にせず、むしろ「永」の下部分のかたちにこだわってデザインしたいきもちになる。
「でも、デザイン指導をしてくれたデザイン部長の太佐源三さんには『橋本さん、点を一生懸命やってください』といわれました。『点がうまく描ければ、ほかの部分も理解できますよ』と」
はてしない「点」
千差万別のかたちがあるなかで、「永」の点は「標準の点」だと橋本さんいう。
「ようやく点が終わったとおもったら、『永』のつづきはひとまず置いて、その次が“れっか”でした」
「れっか」とは「灬」。「点」という字の下にある、4つの点がならんだ部首のことである。やはり、まずはとことん「点」をやるのだ。
「“れっか” は単に点がならんでいるわけではなくて、左から、前向き、ちょっと後ろ向き、もうちょっと後ろ向き、おおきな後ろ向き……となるわけです。この『ちょっと後ろ向き』というのがむずかしい。立ちすぎかもしれない、寝すぎかもしれない。ほんのちょっとしたあんばいで変わってしまう。これも何度も繰り返して、合格をもらったころには2ヵ月ぐらい経っていたかもしれません」
その後ようやく「永」の続きに入った。
「たとえば『永』の左ハライ、“掠(りゃく)”と呼ばれる部分。これは、のびやかに、すこしゆったりとした左ハライ。同じ左側に払う“啄(たく)”はキツツキですから、勢いがないとダメ。同じようなかたちでも、表情がちがうんです。このように、永字八法にはそれぞれ意味があり、文字の表情をつくるんです。明朝体の縦線横線は定規と烏口で引けますが、点、掠、啄は描かないと引けない線です。だから太佐さんは、まず『点』にこだわったんですね」
(つづく)
話し手 プロフィール
橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。
著者 プロフィール
雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
■本連載は隔週掲載です。