1980年頃、写研に書道部が発足した。
「書道部」といっても、部署のなまえだった「文字部」とはことなり、いわゆる課外活動としてのクラブである。橋本和夫さんは、その顧問をつとめていた。橋本さんが書を学びはじめたのは20代。大阪・モトヤ勤務時代にさかのぼる。
劇場型の作品づくり
橋本さんが書を学ぶようになったのは、本連載第5回でもふれたとおり、大阪のモトヤで金属活字のための原字制作に従事していたときのことだ。
「この仕事をはじめたとき、ぼくは文字のことがまったくわかりませんでした。では文字を覚えるにはどうしたらよいのか考えたときに、まっさきに思い浮かんだのが書道だったんですね。書道というか、お習字。字がうまくかけるようになるだろうと考えて習いはじめました」(橋本さん)
書家の村上三島氏に漢字を、宮本竹逕氏に仮名を習い、3年ほど通って基礎を身につけたと自覚して、一度は書道教室通いを終えた。
書道を再開したのは、写研に入社するために1959年(昭和34)に上京し、すこし経ってからのことだ。
「神田の温恭堂という筆墨の専門店で、近藤秋篁先生に教えていただきました。まず楷書千字文を、それから草書を習いました。3、4年ほど取り組んだでしょうか」
近藤秋篁氏(こんどう・しゅうこう/1889-1973)は漢字書家で、当時、日展の審査員をつとめていた。
「各書道会で開催している公募の展示会がたくさんあって、いくつか出展しました。そこで劇場型の書といいますか、展示会用の作品づくりを経験しました。展示会は美術館などの広い空間でおこないますから、大きい作品でないと映えないんです。1枚がふすま1枚ぐらいの大きさで、4曲といって4枚一組の作品をつくったり……。そうした作品の場合は、お手本があるわけではないので、どのような書体で書くのか、どう文字を崩すのかといった書作品の構成を自分で考えていくんです。上野の紙屋さんで画仙紙を買ってきて……、画仙紙というのは一反100枚なんですが、それを何反か買ってきて、自宅で練習しました」
作品づくりが始まると、橋本夫人はお子さんを連れて一日中外で時間をつぶさなくてはならなかった。部屋中が紙で埋まってしまうから、家のなかにはいられないのだ。
「いま思えば、私たちは大変でしたよ(笑)」
夫人は苦笑する。
「大阪時代のぼくの書は、上手に字を書く『お習字』の範囲だったと思いますが、近藤先生に教えていただいて展示会に出展するようになり、美術的に形をつくる筆づかいをするなど、作品としての書を習得したと思います。作品といっても、いろいろある。ふすまほどの大きさの紙に大きく、遠くから見上げたときに映える書き方をする場合と、床の間に飾る掛け軸の場合とでは、文字の構成や書風が変わります。活字書体制作において、見出し用のディスプレイ書体と本文書体では異なることに通じるものがありました」(橋本さん)
書をとるか、活字制作をとるか?
日々、写研での書体制作をおこなうかたわら、橋本さんは書道作品の制作に取り組み、日展や同人展に出展していた。
そして30歳を過ぎた1965年(昭和40)ごろ、近藤秋篁氏にこんな質問を突きつけられた。 「橋本さん。このまま書道を続けるのか、それとも活字制作の仕事をするのか、そろそろどちらかに決めたほうがよいのではないですか?」と。
「劇場型の作品づくりを見て、先生にはわかったのでしょうね。ぼくの書は、作品であって作品でなかったということが。ぼくは活字制作の仕事をしているから、どうしても文字を枠におさめて、まとめてしまう。しかし書道作品は、枠におさまってはいけないんです。もっと自分を前面に出して、自由に書をつくらなくてはいけない。遊びが必要で、活字とは正反対の表現なんですね。だから両立はむずかしい」
「30歳すぎぐらいの時期に先生に『どちらにするのか』と問われて考えた末に、自分は書家ではおそらく食べていけないし、活字の道をいこうとあらためて決意したんです」
しかし書を学んだ経験は、書体設計士として得がたい体験となった。
「ぼくのレタリングの基礎は、書道の経験からきているのだと思います。楷書もわかるし、崩した文字の形もわかる。明朝体とゴシック体だけでない、多種の書体を監修するうえでの、さまざまな文字を見る目を養い、文字との向き合い方を身につけることができました」
やがて発足した写研・書道部も、橋本さんにとって大切な体験となる。
(つづく)
話し手 プロフィール
橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。
著者 プロフィール
雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
■本連載は隔週掲載です。次回は9月10日AM10時に掲載予定です。