写研が外部デザイナーとともに多彩な書体を開発していくことが増えた1970年代後半~1980年代には、書体デザインを持ちこむ人も多くなった。その一人が、本連載 第34回で紹介した「淡古印」の井上淡斎氏だ。井上氏はもともと印章業界で版下文字を書いていた人だった。
「また、レタリングで雑誌の記事タイトルや見出しを描いていた方も来られました。いまはデジタルフォントを加工してつくっているのでしょうが、当時はほとんど手描きだったんです」
当時、写研から外部デザイナーに依頼した、ほとんどの書体を監修した橋本和夫さんは語る。
「たとえば週刊誌だと、『今日この記事の原稿が上がるから、そのタイトル文字を今晩12時までにつくってほしい』というような注文が入るそうです。原稿ができたころに電話がかかってきて、そこから徹夜で仕上げる。原稿が書き上がらないと、タイトルは決められませんから。手描き文字が得意だったその方に、写研からもたくさん描き文字書体のデザインをお願いしました」
「イナブラシュ」「イダシェ」の書体デザイナー・稲田茂氏(1928-2009)のことである。(*1) 写研から発売された「イナ」のつく名の書体は、稲田氏のデザインによるものだ。
「稲田さんは、描き文字の本もたくさん出版していました。普段から、いろいろな描き文字を描きためていて、それをまとめて本にしていらした」
たとえば『日本字フリースタイル』(ダビッド社、1969)をはじめとする「日本字フリースタイルシリーズ」は、作品に番号がふられており、発注者と受注者がそれぞれこの本をもつことで「◯番のような文字」と書体のイメージが共有できるよう配慮されている。稲田氏自身が特急の仕事をうけるなかで、「こういう資料があったら便利だろう」と考えてつくられた本だ。(*2)
「あの本で、出版や広告業界の人たちに『すごく楽になった』と喜ばれたそうです」
稲田氏自身、アイデアに困ったときのヒントになるように、日頃から新聞や雑誌のさまざまな文字をデッサンのつもりで描いておき、ストックしていたという。レタリングに関する著書でも、それが上達のコツだと述べている。
〈レタリングが早く上手になるもうひとつのコツは、日常目に触れる宣伝物を、じっと穴のあくほど見つめて、その字形を頭に入れることです〉
〈大事なことは、手のこんだ作品が必ず適切だとはいいきれません。使用する目的や場所によって、或 いは中身によって、大きさによって、紙面を埋める密度によって、常に適切なレタリングをするよう心がけなければなりません。日頃の訓練次第で、ポイントの掴み方は会得できるものです。ハッとするような宣伝・広告物を目にした時、必ず、手帖や小型スケッチブックに、エンピツで写しとる習慣をつけてください〉(稲田茂『写真でみるレタリング入門』ダヴィッド社、1975 *3)
「イナ」のつく書体が写研から最初に発売されたのは、1976年(昭和51)のこと。広告専用見出し書体として「イナブラシュ」「イダシェ」の文字盤が発売された。広告チラシ専用として開発されたため、当初は仮名、数字、記号・約物と、チラシのタイトルでよく使われる漢字の合計約500字のみだった。しかし、もっと文字数を増やしてほしいという要望が寄せられたために、漢字・仮名・記号・欧文などひとそろえの書体として「イナブラシュ」が1982年(昭和57)、「イダシェ」は1984年(昭和59)に発売された。
こうした描き文字風の書体が写植から次々と生まれていくことになった背景には、ハードの進歩があると橋本さんは言う。
「1970年代後半に万能機PAVOが生まれたことで、写研の書体が広告で使われるようになり、おおきく変わりました。それまでの小型手動写植機SPICAでは、主レンズで文字の大きさが62級(15.5mm)までしか打てませんでした。これは、活版印刷でもちいられる号数制活字の最大サイズ・初号(約14.8mm)とほぼ同じサイズだったんですね」
活版印刷では、初号よりおおきな活字はなかったので、それよりおおきい文字を使いたいときには描き文字から凸版を起こす方法がとられていた。また、金属活字では、それ以降の写植やデジタルフォントほど多彩なデザイン書体はなかった。このため、ポスターや広告、雑誌や書籍のタイトルなど、意匠性の高い文字が必要な場面では、手で文字を描く以外に方法がなかった。
「しかしPAVOの登場によって、主レンズで100級(25mm)までの文字が打てるようになりました。また、オプションとして250級(62.5mm)まで拡大印字ができる超拡大アダプターもあった。ここで、写研書体は本文や見出し用途だけでなく、それまで描き文字が使われていたポスターやチラシのタイトル文字にまで広がっていった。『読む』文字から『見せる』文字、ファッション性としての文字へのウェイトが高くなっていきました」
「そして、描き文字を描いていた方が写研の書体をデザインすることによって、『書体デザイナー』というあらたな仕事の場を得ることにもつながりました」
稲田氏の著書でも、描き文字(レタリング)への写植の影響にふれている。
〈レタリングを変化させたもうひとつの力は写真植字の影響でしょう。従来は、活字に代わるというだけのものであった写植文字に、いろいろな新書体ができ、それが大きくなったり、長くなったり、斜めに倒れたり、重なり合ったりという機械的なテクニックを縦横に駆使して、もう暴れ廻っている、と言っても過言ではないほどです。 タイポス、ナール、スーボなどといった書体は、その代表選手です。隷書体まで出てきました。そのうちに勘亭流から相撲文字から篆書体(判コ文字)までつくられるかもわかりません。〉(稲田茂『日本字フリースタイル700 II』ダヴィット社、1976)
「写研の写植機は1980年代に入ると、大型プロッターで出力したり、カッティングマシンと接続して切り抜き文字を出力できるようにもなって、看板店でも写研の写植機が使われるようになっていきました。出力媒体がおおきく広がったことが、写研の多書体化に、より拍車をかけた。ハードの開発が書体に大きな影響を与えたのです」
(つづく)
注)
*1:稲田茂(いなだ・しげる):1928年岡山県生まれ。1945年、京城公立工業・建築科卒業。株式会社奥村組(岡山県)、ディスプレイ会社の株式会社日展(東京)を経て、独立。グラフィックデザイナーとなる。書体デザイナーとして「イナブラシュ」「イダシェ」 「イナひげ」「イナクズレ」「昭和モダン体」「民芸体」などさまざまな書体をデザイン。また、レタリングや文字に関するさまざまな本を執筆した。
*2:「日本字フリースタイル」シリーズは、のちに稲田茂氏が1969~1981年にかけて出版した『日本字フリースタイル700 I』『日本字フリースタイル700 II』『日本字フリースタイル700 III』(すべてダヴィット社)の3冊を再編集し、『新装版 日本字フリースタイル・コンプリート たのしい描き文字2100』(稲田茂著、誠文堂新光社、2017)として復刻されている。
*3:稲田茂『写真でみるレタリング入門』(ダヴィッド社、1975) P.7、P.109より
話し手 プロフィール
橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。
著者 プロフィール
雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
■本連載は隔週掲載です。次回は8月27日AM10時に掲載予定です。