20年以上の歳月を経て再訪したノサップ
「♪納沙布は人情岬」と歌ったのは、とんねるずである。いまをさかのぼること22年前、1986年の秋のことだ。僕は高校3年だった。
その頃、日本にいちばん距離的に近い、けれど心情的にはきわめて遠い国……それがソ連だったように思う。ソビエト社会主義共和国連邦。最近の若い世代にとって、ソ連という国家は現実のものではなく、最初から歴史だろう。ソ連崩壊は1991年、僕が大学5年のときだから、僕らの世代にとっては、ソ連というのはもちろんかつて"現実"だった。
「人情岬」が歌われた当時のソ連のトップは、すでにゴルバチョフになっていた。いうまでもなくソ連最後のリーダーである。僕が生まれて初めて北海道に行ったのも、まあだいたいそんな頃だ。初の北海道で、札幌にも函館にも行ったし、洞爺湖にも摩周湖にも富良野にも行った。けれどそもそもの最終的な目的地は、北の宗谷岬と、東の納沙布岬だった。おそらくその頃からすでに、僕の端っこフリークぶりは始まっていた。
納沙布岬に対して、当時まだガキだった僕が抱いていたイメージといえば、「日本の端」であり、同時に「怖い場所」というものだった。
そこへ行く以前から、岬の先端のわずか3.7km先に浮かぶ貝殻島はもう「北方領土」で、その間の狭い海にはソ連の警備艇が日夜行き交っていると聞いていた。そして実際に訪れ、見た。ソ連の船を。すぐ目前の北方領土を。1969年生まれの僕にとって、モノゴコロがついた頃のソ連トップはブレジネフである。テレビのニュースでブレジネフの顔を見ると、子どもにはとても怖かった。そのイメージが、僕の中に根強く残っていたのだろう。だから納沙布岬から見たソ連の警備艇も、ただひたすら怖かった。
あれから20年を超える月日が過ぎ、今回……2008年5月上旬のことだが、あのとき以来の納沙布岬再訪を果たした。北海道自体には毎年行っているのに、納沙布からはなんとなく足が遠のいていた。
すでにソ連という国家はなく、共産主義体制も衰退し、北方領土をめぐる情勢は大きく変わった。にもかかわらず、いまなお僕らは北方領土へ気軽に上陸することができない。納沙布岬から貝殻島までの3.7kmは、依然として何かを頑なに遮断する3.7kmのままである。
緊張に満ちた"国境感"が漂う端
話が長くなった。今回の"日本の端"は、北海道・納沙布岬。根室から東にひょろりと突き出した根室半島の先端である。
日本最東端の南鳥島を除き、また北方領土を除いて、いわゆる「日本本土」という言い方において日本最東端に位置する場所だ。余談だけれど、北海道にはアイヌ語由来の地名が多いせいか、似た地名もけっこうある。たとえば今回の納沙布(ノサップ)岬と、宗谷岬の近くにあって映画『喜びも悲しみも幾歳月』の舞台となった野寒布(ノシャップ)岬は、混同されることも多いがいうまでもなく別の岬なのである。
納沙布岬は、根室の市街地からはけっこう離れている。今回はレンタカーで訪れたが、だいたい30分かかった。初めてきたときは路線バスを利用したのだけれど、そのときは荒涼とした景色の中をもっと長々と走ったイメージが残っている。実際に根室駅前からの路線バスでは40分ほどかかる。まあ、いずれにしても根室半島というのはそれだけひょろ長いということだ。
納沙布岬に近づくと、「最東端」にまつわる表示がどんどん増えてくる。「日本最東端の学校」「日本最東端の郵便局」などほのぼのとしたものもあるけれど、やはり北方領土が目と鼻の先というだけあって、どこか緊張感に満ち、国防色漂うもの、政治色をまとうものが目立つのが納沙布岬の特徴といえる。
海に囲まれた国土に住む日本人は「国境感」が薄いとよくいわれる。しかしこの地にくれば、海だろうが陸だろうが国境は国境なのだという現実にキリリと直面することだろう(もちろんここで「国境」と呼んでいるのは便宜上でありかつ現実的な状況からであって、北方領土問題に対し筆者が勝手にケリをつけているわけではないので、念のため)。
国境は政治的なものであり軍事的なものであり同時に経済的なものだ。いろんな意味で。与那国などと同様、ここ納沙布でも"国境"というキャッチーなコンセプトをウリにする「日本の端」な店を見かける。商魂とは実にたくましい |
こちらは最東端の交番、根室警察署納沙布駐在所。表示の「駐」と「在所」の間が引き裂かれているのはなぜ? 北方四島が日本本土から引き裂かれている現状を表している? それとも……単にミス? |
珸瑶瑁水道に引かれた見えないライン
この日は別海町のほうからのんびりやってきたので(前回を参照)、納沙布へ着いた頃にはすでに太陽光線が黄色くなりかけていた。岬の周辺には灯台や展望塔、資料館など多くの建物が並び、碑・オブジェ類もいろいろ立っている。土産物屋などに囲まれた一角の駐車場に車を停める。「本土最東端 納沙布岬」の碑が目の前に立っている。納沙布岬の灯台は、ここから少しだけ歩いたところにある。
灯台の裏手に立つ。岬が海に落ち込み、その先には、狭い珸瑶瑁(ごようまい)水道の海を挟んで、現実的に日本政府の統治が及ばない歯舞群島の島々が、間近にいくつも浮かんでいる。上にも書いたように、最短は貝殻島の3.7km。灯台のみが海から突き出た印象の、ごく小さな島だ。3.7kmといえば江戸時代の一里(約4km)よりも短いわけである。そりゃあ近い。
次に近い水晶島が7km、その次の秋勇留島が13.7km……こういった島々が、野付半島から見た国後島よりもまだ近い位置に、ポコ、ポコと浮かんでいる。どれもこれも、すぐそこにありながら、現実的な"国境"の向こうであって、僕がいま船で渡ろうとしたらいろんな意味で問題がある。そういうラインが、納沙布岬の眼下の海に、確実に引かれている。
左の写真は納沙布岬からわずか3.7kmと"日本"にもっとも近い貝殻島の灯台、右の写真がおよそ7kmで2番目に近い水晶島。実際には水晶島が左に、貝殻島がその右手前に浮かぶ。いずれも双眼鏡で除けば"ロシア"の姿がよく見える |
納沙布岬には、上にも書いたように実に多くの建造物やモニュメントがある。この多さは、四端(東西南北端)の他の三端とは比べものにならない。これもこの地をめぐる事情の複雑さゆえというところだろうか。
そのすべてを回るには、それなりに時間も必要なことだろう。ただし中には、行ってみたい気をあまり起こさせないようなものもあるにはあるが。 何より、どんなモニュメントよりも、この岬に立って海と島を眺めるという経験が、いろんな物事を感じさせ、考えさせてくれる。
ともあれ、以下、納沙布岬にあるさまざまな建造物・碑などのうちいくつかを軽く紹介していこう。
本土最東端の碑。足元には「北緯43度23分07秒 東経145度49分01秒」と刻まれている。本土最東端であるからして、年末年始のほんの一時期を除き、日本本土でもっとも早く日が昇る。なぜ「一時期を除き」なのかについては第5回を参照のこと |
北方領土の返還を祈念して建てられた巨大なモニュメント「四島(しま)のかけはし」。択捉、色丹、歯舞、国後の四島をアーチで結びつけたデザインになっている。中央には波照間島で採火した「祈りの火」が燃えている |
いちばん目立つ建物といったら、やっぱりコレ、「ノサップ岬平和の塔」。高さ約100mあり、展望台からは岬や日没の眺望がすばらしいそうだが、なぜかあまりそそられず、僕は昇ったことがない。有料(大人900円) |
次回は、"国境"のダイナミズムがうごめく街・根室、をお送りします。