クリントン氏のメール問題

大詰めを迎えた米大統領選ですが、ここへきて情勢は一段と混とんとしてきました。いったんはトランプ氏のセクハラなどのスキャンダルによって「クリントン氏優勢」が濃厚になったと思われたにもかかわらず、FBI(米連邦捜査局)がクリントン氏のメール問題を再捜査すると発表したためです。

メール問題とは、ヒラリー・クリントン氏が国務長官在職中(2009~2013年)に私用のメールアドレスを使って公務のメールのやり取りを繰り返していたとされるもので、この中には国家機密にかかわる情報が含まれていた可能性があるとして、かねて批判の的となっていました。

しかし今年7月にFBIは「違法性はなかった」と捜査打ち切りを発表し、この問題は決着したと見られていました。ところが10月28日になってFBIは「新たなメールが見つかった」として捜査再開を発表したのです。

これで一気にクリントン氏側に逆風が強まりました。米テレビ局ABCと大手紙・ワシントンポストが30日に発表した世論調査によると、クリントン氏の支持率が46%だったのに対し、トランプ氏が45%となり、トランプ氏がわずか1%差に追い上げていることが明らかとなりました。主要世論調査の平均値でも、トランプ氏が急速に追い上げており、最新の31日に集計で両候補の差は3.9ポイントに縮まっています(リアル・クリア・ポリティックス調査)。

大詰めでトランプ氏が急速に追い上げ

市場に広がる「トランプ大統領」への警戒感

本連載の前号(10月18日付)で「苦しくなったトランプ氏」と書きましたが、同時に「ヒラリー氏優勢との流れが強まっていることは確かですが、まだ何が出てくるか予断を許しません」とも指摘しました。その後半部分がまさに現実となったのです。

一部には「トランプ逆転勝利もありうる」との見方も出てきました。FBIが捜査再開を発表した10月28日のニューヨーク市場で株価が小幅ながら下落、円安傾向が強まっていた為替相場は1ドル=105円台から104円台へと一転して円高・ドル安に振れました。その後も市場には「トランプ大統領」への警戒感が広がっています。

FBI捜査再開でニューヨーク市場で株価が小幅ながら下落

FBI捜査再開で為替相場も円高・ドル安に振れた

このような展開となっている背景には、もともと両氏ともに信頼感が低いという残念な現実があります。クリントン氏には以前からメール問題への批判が根強くありましたし、それが公私混同や傲慢といったイメージと重なっていました。たしかにクリントン陣営が批判しているようにFBIが選挙戦の終盤に至って捜査を再開するのは異例であり、その意図についても不透明な印象があります。しかしクリントン氏陣営がいくらFBIを批判してみても、クリントン氏への信頼感がさらに低下したことは否めません。

一方、トランプ氏に対する信頼感の低さは周知の通りです。このため今回の大統領選は「だれを選ぶかではなく、だれを選ばないかの選挙」と言われてきたほどです。もはや政策論争などどこかへ吹っ飛んでしまった感があります。どちらが勝利しても、次の大統領はスタートから史上最低の支持率になること可能性があり、強い指導力を発揮することはあまり期待できそうになりません。

アメリカ人が理想とする大統領像とは

ところで先日たまたまテレビの専門チャンネルを見ていたら、『エアフォース・ワン』というアメリカ映画を放送していました。1997年に制作されたこの映画は、大統領の専用機「エアフォースワン」が旧ソ連のテロリストにハイジャックされて大統領の側近や家族が人質になるのですが、大統領がテロリストたちに立ち向かい、エアフォースワンを奪い返すという内容です。

大統領役はハリソン・フォードで、一時はテロリストに捕らえられながら、腕力と機転でテロリストたちを次々に倒して、墜落しそうになるエアフォースワンを自ら操縦かんを握るなど、スーパーマンのような活躍を見せるのです。同時に家族への深い愛情、部下からの厚い信頼……と、まさにアメリカ人が最も理想とする大統領像が描かれています。

アメリカの映画やドラマには大統領がよく登場します。大統領を批判的に描いたり茶化したりするものも数多くありますが、大統領の理想像が表れているものも少なくありません。一世を風靡したテレビドラマ『24(トゥエンティフォー)』には理想的な黒人大統領が登場し、オバマ大統領の誕生に一役買ったと言われていますが、同作品にはその他に愚かな大統領、女性大統領など、さまざまなタイプの大統領が登場します。

これら米映画やドラマから感じられるのは、やはりアメリカ人は「強い大統領」「強いアメリカ」を理想としているということです。現実の歴代の多くの大統領はまさにそうした期待を担って当選してきた人たちだったと言っていいでしょう。しかし今回はどちらが勝利しても、あまり期待されていない人が選ばれるという、理想とは程遠い結果となりそうなのです。

「いや、トランプ氏は強いアメリカ、グレート・アメリカと言っている」との反論が聞こえてきそうです。確かにアメリカ国民のそうした声を反映していることは事実です。しかし同氏の主張は排外主義をあおるばかりで、本当の意味でアメリカを強くする政策とは言えません。

かつて「強いアメリカ」を掲げて大統領に就任した人がいました。1980年の選挙で勝利したレーガン大統領です(大統領在職は1981~89年)。このため、トランプ氏を「レーガン大統領が登場してきたときに似ている」と言う人がいます。しかしそれは似て非なるモノだと強調しておきたいと思います。

レーガン大統領が登場する前の米国経済は、1970年代に起きた石油危機によって超インフレと不況が同時に進行する深刻なスタグフレーションに見舞われると同時に、ベトナム戦争の敗北、治安の悪化など、国力の低下が顕著になっていました。これに対し、当時のカーター大統領(民主党)は十分な対応ができずに支持率が低下していました。

そこに映画俳優出身でカリフォルニア知事を務めていたレーガン氏が共和党候補となり、再選を目指した現職のカーター大統領を破り勝利したのでした。レーガン氏は知事を務めていたとはいえ、ワシントン政治家ではなかった点もトランプ氏との共通点を意識させています。

しかしレーガン氏は「強いアメリカ」を単にスローガンで叫んでいただけではありませんでした。1期目にはソ連に対し厳しい態度で臨みましたが、2期目になるとソ連の最高指導者となったゴルバチョフ共産党書記長と緊張緩和交渉を開始したのです。対ソ戦略の基本を堅持しつつ、同時にゴルバチョフの改革志向を見抜き「交渉相手になりうる」「チャンス」と見て動き、緊張緩和を実現しました。「強いアメリカ」政策が冷戦終結に導いたのでした。

経済面での「強いアメリカ」は「強いドル」をめざす政策として具体化されました。インフレを抑えるため高金利政策、それと連動してドル高政策をとりました。その一方で、景気刺激のために大幅減税を実施するとともに規制緩和によって経済の活性化を図りました。この政策はレーガノミクスと呼ばれます。その結果、インフレは収まり景気も回復、弱っていた米国経済は元気を取り戻しました。その後、米国では8年間にわたって景気拡大が続くことになります。

このようにレーガン大統領には明確で適切な戦略と政策があったのです。しかしトランプ氏はそうした戦略も政策も持っているとは言えません。今回の大統領選ではスキャンダルや個人攻撃ばかりで、まともな政策論争が行われていませんが、そのように政策面にもしっかり目を向ける必要があるでしょう。

執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)

1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。