既婚の女友達二人と、ひさしぶりに会いました。同じ年齢で、二人とも働いています。仕事について、夫婦関係についてなど、話は弾みました。それぞれ、仕事も違えば既婚/独身、子あり/子なしと立場も違うわけですが、そんな二人とたくさん話した帰り道、私の頭は「幸せって、いったい何なんだろう?」ということでパンパンになっていました。

私は、「幸せ」という状態は、何かを信じていないと生まれないものだと考えています。同じだけのお金や、同じ食べ物、同じ仕事でも、それを「幸せ」と感じる人もいれば、不幸だと感じる人もいます。何をどれだけ持っているか、いないか、どう感じている状態が楽しいのか、「十分だ」と感じる基準は人それぞれです。その基準を持たない人は、今が幸せなのかどうか、判断することができないのではないでしょうか。

「幸せ」のために何をしているか?

既婚の二人の友人は、私から見ると「幸せの基準」を見つけた人たちのように見えました。いろいろ悩んだ末にマンションを購入したり、年に数回しか取れない連休には、夫婦の共通の趣味の旅行の計画を立てていたり……。

それは「普通のこと」のように見えますが、マンションを買うためにどれだけがんばって稼ぎ、計画的にお金を管理しなければいけないか、「二人で」行く旅行のために、どれだけ行く場所をすりあわせて考え、休日を合わせるために苦労し、ときには自分が折れて相手の希望を通したりしなければいけないか、私もさすがに想像ができる年齢です。

それらの「幸せ」のために、惜しみない努力を彼女たちがしているであろうことが伝わってくるのと同時に、「では自分はどうなのだろう」「幸せのために、何かを考えたり努力したりしているのだろうか?」「いや、そもそも、私にとって幸せな状態って、何!?」と考え始めると、急に混乱してしまったのです。

独身の幸せ、結婚の幸せ

最近、私が幸せを感じた瞬間は、サザンオールスターズのチケットの先行抽選予約に当選し、チケットが取れたことです。

好きになったとき、サザンオールズターズは解散していて、「もしかしたら一生、ライブは観れないのかも」と思っていたし、復活しライブをやると聞いても、すごい競争率の中でチケットを取れるのか心配だったので、涙が出るほど嬉しかったです。ライブを観たら、最高に幸せな気持ちになると思います。

好きな音楽やエンタテインメント、芸術に触れることは、私にとってこの上なく幸せなことです。好きなものがわかっていて、それを味わうことのできる自分は、なんと幸せなのだろうかと感じることもあります。

しかし、その一方で「ひとりで完結する幸せばかりを追い求めていて、いいのだろうか」という、かすかな疑問も感じます。変な言い方ですが、何も我慢せず、人に合わせることなく我が道を行っている自分のことが、心配になるのです。独身生活が楽しすぎたら、結婚に対する真剣味がなくなってしまうのでは? と思えてくるのです。

今の世間では、「何かを我慢して、幸せを手に入れる」という考え方が一般的だと思います。「欲望を何も我慢しない人間にはバチが当たる」という考えすらあります。『アリとキリギリス』的な考え方です。私は何もかも我慢していないわけではないのですが、日常的に他人に合わせて生活するということはしていません。

「こんなに自由で気楽でいいのだろうか? いつか、そのしっぺ返しのように、ものすごく寂しくみじめな老後がやってくるのではないか?」そういう不安が常にあります。そして、今その「他人に合わせる」訓練をしないままここまで来てしまったがために、今後誰かと生活をともにすることが、さらに難しくなっていくのではないかという不安も……。

得体の知れない不安におびえるよりは、今を楽しんだほうがいいはずです。人生は結婚していようがいまいが、得体の知れない不安はついて回るもので、どんな人でも不安と戦い、楽しむことを忘れずに生きていくしかないのだと、頭ではわかっているのですが……。今は、自分の「幸せの軸」が、世間の軸にぶつかり、常にゆさぶられている状態なのかもしれません。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩