柏木真男にとってスイスは特別な国だった。

まず、柏木がファンド・マネージャーとして運用する金融商品をスイスの銀行が大量に購入してくれている。柏木にとってスイスは大のお得意様だ。

そして、柏木自身その個人財産をスイスの銀行に預けていた。

プライベート・バンキングと呼ばれるものだ。

徹底した守秘義務で顧客財産を守りぬく、それは100年以上の歴史があり他に類を見ない。

顧客となるには、想像を絶する条件がある。

日本円で50億円以上の金融資産を持っていないと顧客にはなれないのだ。

世界の選ばれた富豪だけがその顧客となることを許されていた。

柏木はチューリッヒの街並みを眺めながら、あらためてそのことを考えていた。

<それこそが、スイスという国を守っている安全保障だ>

20世紀は<戦争の世紀>と呼ばれた。

ヨーロッパでは戦争に明け暮れ、何千万人もの命が犠牲となっていった。

だが、そのヨーロッパの中央に位置するにもかかわらず、戦争に巻き込まれていない奇妙な国があった。

それが、スイスだ。

柏木は、チューリッヒやジュネーブ、そしてルガノなど、スイスの主要都市をビジネスで訪れるたびに独特の雰囲気を感じた。どの街にも漂う不思議な落ち着きのようなもの----。

それは、スイスの国力に裏打ちされた<余裕>と言えるものだった。

自分たちには絶対的安全が保障されている自信、と言っても良いだろう。

「この自信はどこから来るのか? スイスの安全を保障している国の力とは何だ?」

国の力とは①政治力②経済力③軍事力④ソフト・パワーの総合と、柏木は考えている。

政治力は、重要なポイントになる。

スイスは<永世中立国>だ。

他の国同士が紛争になった場合、どちらの味方にも敵にもならないとしている。

「だから、決して戦争に巻き込まれない」という建前になる。一般的にはそのように理解されている。

だが、本当にそうだったのか?

徹頭徹尾リアリストである柏木は、歴史の事実だけを信じた。

スイスと同様、中立を宣言していた国は他にもあった。

ベルギーやオランダがそうだ。

中立という<理念>によって国家を成り立たせようとする理想は美しい。ただし、他国がその<理念>を尊重してくれれば----の話だ。

現実には、ベルギーは第一次世界大戦でドイツの中立侵犯を受け、後に中立の廃棄に追い込まれている。オランダは第二次世界大戦時にナチス・ドイツに中立を無視され、あっという間に蹂躙されてしまった。

歴史を見れば一国の<中立>宣言など何の抑止力にはならなかったのだ。

しかし、スイスだけは<中立>を「尊重(?)」され、侵略されていない。

<何故だ?>

柏木はさらに考えた。

②経済力③軍事力の双方とも、スイスは大した力を持っていない。

「残る④ソフト・パワーに、スイスの安全保障の秘密が隠されているのか?」

柏木は自身が国際的な金融ビジネスを通じてスイスの銀行業務を深く知ることになった。プライベート・バンカーと呼ばれる人間たちとも多くの交流を持つようになっていった。その過程で、スイスだけが<中立>を守り通せた秘密を、自分なりに解明した。

そこにあったものは、嫌になるほどリアルな現実だ。

スイスの安全を保障しているもの----それは<カネ>だった。

スイス独自の銀行業務、プライベート・バンキングこそが、スイスの国力なのだ。

世界の政治経済を動かす重要人物たちの財産を、スイスは一世紀以上守ってきた。

<ナチス・ドイツの幹部など----20世紀以降のあらゆる国家の指導者たちは、その財産をスイスに置いていた。だから『スイスには手を出さない』という不文律が国際政治上、暗黙の裡に出来上がった。それは、今も変わらない。表に立って世界を動かす者も、裏に回って支配しようとする者も、その財産はスイスが管理しているのだ>

自分の財産が管理されている場所を物理的に攻撃しないのは当然のことだ。

カネを詰めた自分の財布を燃やそうなど、誰も考えない。

カネの存在は、安全保障に直結している。それは身も蓋もない現実だ。

<日本が外国からどんどん投資を呼び込むことが出来れば、誰も日本と戦争しようとは考えなくなる。武装強化などしなくとも、他国のカネで自国の安全を守ることが出来る。だが、日本の政治家はそれを理解していない。したたかな国はちゃんと分かっているのに>

柏木はいつもそう思っていた。

<日本人はナイーブすぎる。何もしないでも自分たちは安全だと思い込んでいる>

柏木は、あることを思い出した。

それは、ひとりの若い中国人女性だった。

彼女が柏木に残した鮮烈な印象は、今でも折りに触れて彼の脳裏をよぎることがあった。

(完)

(イラスト : ミサイ彩生)


波多野聖氏のマネー小説 『Dekai! 出界!』は、弊社(マイナビ)側の事情により、今回が最終回となります。これまでご愛読いただいた読者の方々には大変感謝するとともに、大変申し訳なく存じております。(マイナビニュース編集部)。