【前回までのあらすじ】
世界的なヘッジ・ファンド『エンタープライズ・K』のCEO、柏木真男は、離婚経験のある38歳の独身。その名は国際的に知られている。スイス・チーリッヒの五つ星ホテルに滞在する柏木は、ホテルを出た後、スイス国営放送の第2スタジオで、女性インタビュアーから、世界経済の見通しについて質問を受けていた…。
「あの国は……もう、ダメです」
そう言ってから、柏木は何ともいえない顔つきになった。
インタビュアーは彼が自分の言葉に後悔しているのではないかと思ったが、そうではなかった。柏木は吐き捨てるような調子で続けた。そこには、怨念のようなものさえ感じさせた。
「あの国は……日本は、完全に間違えてしまった。バブル経済が崩壊した後の舵取りを大きく間違えたのです。それは資本主義の根幹に関わる誤りでした」
「それは、いったいどういうことでしょうか?」
「銀行の弱体化です。日本政府は時の世論に加担してバブルの責任を銀行に押しつけ、徹底的に銀行の弱体化を図った。その結果が<失われた20年>です。少し長くなりますが、よろしいですか?」
インタビュアーはタイム・キーパーをちらりと見て確認し、うなずいた。
「卓越した経済学者であるシュンペーターは言っています。『資本主義を資本主義たらしめるものは、利潤追求でも市場機構でも私有制度でもない。それは、信用機構である』と。資本主義の発展にとっての金融の機能の重要性を喝破した名言だと思います。バブル崩壊で不良債権処理に苦しむ銀行に公的資金を入れるまでは正しかった。しかし、その後も日本政府は規制と監督を強化し、各銀行の経営の自由度を極限まで奪ってしまった。銀行を国家管理に置く状態を常態化させてしまったのです」
「それは今のユーロ圏にも、当てはまりませんか?」
「その通りです。ですから私は、世界経済全体の今後に対しても大きな懸念を持っています。日本について、続けてよろしいですか?」
女性インタビュアーは、ふたたびうなずいた。
「日本は、この誤った舵取りために自由闊達な信用創造が起こらない経済構造になってしまいました。資本主義国として成長の骨格を失った。それだけではありません。日本は世界最速で少子高齢化社会に向かっています。絶対的な労働力は激減しているのです。『モノづくり大国・日本』などと言っていますが、人がいなければモノは作れない。そんな中で金融産業は最も重要な産業となるはずだった。少ない人員で何兆円も税金を納めてくれる産業が他にありますか? 本来、銀行とは、そこに働く者ひとり当たりの付加価値が非常に高い産業なのです。かつて、マーガレット・サッチャーが『お金持ちを貧乏人にしても、誰も幸せにならないのよ』と言いましたが、まさに今の日本は、銀行をイジメぬき弱体化したツケが国民全体に回ってきてしまったのです。構造的な低成長を抜け出せない袋小路に陥っているのです」
フロアー・ディレクターはカメラの横から「ここで、まとめて下さい」と書かれたフリップをインタビュアーに掲げた。
「金融産業の弱体化による経済の弱体化はその通りですね。あらためてユーロ圏での銀行への対応を考えさせられるご指摘でもあったと思います。最後に、その他に日本の今後の成長の障害となる問題点として何が考えられるでしょう? 戦後、奇跡の経済成長を遂げ、"ジャパン・アズ・ナンバーワン"と讃えられた国が、これほど短期間で凋落した事実は投資家にとって興味深いことであると思うのですが」
柏木は天を仰ぐような仕草をし、軽く息を吐き出してから言った。
「最大の難点は、バブル崩壊以降、日本のあらゆる組織に相似形で増殖してしまった『責任回避体制』でしょう。だれもが責任から逃げようとする。国の成長に最も重要な学校教育の現場、そこで起きている深刻な<いじめ問題>も教育組織の責任回避から来ています。『現場の人間が見て見ぬ振りをする。事なかれ主義を貫く』-----企業組織でも責任回避は深刻な事態となっています。それは今、日本で<元気が良い>と評価されている 数少ない企業を見れば分かります。全てオーナー企業です。社長が全責任を負っていますから決断が早い。グローバリゼーションでのビジネス成功に要求されるのは「決断の早さ」です。契約での決断、投資への決断、事業が失敗した際の損切りの決断……すみやかにそれが出来るかどうかが勝負の分かれ道です。しかし、大半の日本企業は全く逆の状態です。『責任回避体制』がコンプライアンス(法令順守)を隠れ蓑に<要件主義>として蔓延し<前例踏襲・横並び主義>が横行しています。成長のための決断を避けて前にも後ろにも進めず『座して死を待つ』状態に陥っているのです。リスクを取らずにリターンはありません。しかし、日本の大半の企業はリスクを取ろうとしていない。失敗した時の責任を明確にされることを避けている。そんな国に将来の成長は望めません」
柏木はTV局を出て、チューリッヒの古い石畳の街並みを眺めながら歩いた。
〈かつて日本を占領し統治した米国政府の幹部は『日本はこれからスイスのような国を目指すべきだ』と言った。日本が経済大国という旗印を降ろさなくてはならない今でこそ、そう言えるのだが……〉
柏木は訪れるたびに、スイスという国の不思議さを考えさせられることになっていった。<永世中立国>という存在の意味と強さを。
〈日本の弱小政党は『憲法九条を持つ以上、日本は非武装中立国となるべきだ』と馬鹿の一つ覚えのように力説しているが、幼稚でまったく世界の本質を分かっていない。国と国とのエゴが剥き出しにされている今の世界情勢で日本がどのように生き残っていけるか。本当の意味で、したたかに生きる手だて。それを考えられない日本は、ダメだ〉
柏木はスイスの<したたかさ>に気がついていた。
それはゾッとするような現実だった。