僕がまだ会社員をしていたころ、その年に新卒で入社してきたばかりの新入社員と話をする機会がありました。基本的に新入社員はやる気にあふれているものですが、僕が話をした新入社員も例に漏れず、高い志を抱き理想に燃えている状態でした。
高い志を抱くことは、別に悪いことではありません。漫然と働くよりも、何らかの目標を持って働いたほうが日々の仕事にもメリハリが出るでしょう。ただ、ひとつ気になることがありました。彼がどんなビジョンを持って働いているのか知りたくて
「将来、何かやりたいこととかあるんですか?」
と聞いてみたところ、彼は
「この会社を世界一の会社にしたい」
と答えたのです。
彼の回答を会社の経営陣が聞いていたら、目を細めて喜んだに違いありません。しかし僕は経営陣ではないので、喜ぶのではなく驚きました。彼が掲げた目標は、「個人の目標」というよりも「会社の目標」です。この後輩は、明らかに「会社と自分を切り離して」考えることができていません。連載11回目で挙げた定義に照らせば、典型的な「社畜」ということになります。
この後輩のように、会社への高い忠誠心をもった社畜のことを、僕は「ハチ公型社畜」と分類しています。「忠誠心」なんて言葉を使うとものすごく時代錯誤な感じがしますが、悲しいことにこういう社畜もまだまだたくさん存在しているのです。
一介の従業員なのになぜか経営者目線
ハチ公型社畜の大きな特徴のひとつに、不相応な「経営者目線」を持っていることが挙げられます。
本来であれば、会社員は会社から雇われている立場にすぎません。会社の戦略を決定したり、会社の業績に一喜一憂するのは基本的に経営者の仕事です。雇われである従業員がしなければならないのは、自分がもらっている給料に見合うだけの労務を会社に提供することです。仮に会社の業績が悪化したからと言って、経営者と一緒に死に物狂いで立て直しのために働く必要はありません。
しかし、ハチ公型社畜はこのようには考えられません。彼らにとって、会社の動向はすべて「自分ごと」です。会社の業績が悪化すれば、それを立て直すために死に物狂いで働きます。会社が世界一の企業を目指すのであれば、自分も一生を捧げて目指さなければと考えてしまいます。それが自分の給料に見合っているかは問題になりません。
労働者を守るための法律も、経営者目線を持った彼らには「好ましくないもの」に映ります。会社に残業代を払う余裕がないというのであれば、率先してサービス残業をしてしまいます。性質上、従業員と経営者との間では利害が対立することがありますが、そういう時に自分の立場を忘れて経営者側にたってしまうのが、ハチ公型社畜の悲しい特性です。
時には会社を「外側」から見る必要もある
もちろん、一切経営者目線を持つなと言いたいわけではありません。役職によってはある程度会社の経営陣に近い目線で物事を考えないとそもそも仕事にならないという場合もあるでしょうし、自分の会社の経営状態を知っておかないと、業績悪化の際に逃げることができなくなります。自分の会社の経営に一切関心をもたなくてよいというわけではありません。
必要なのは、その会社の一員という立場を離れて、外側から「客観的に」自分の会社の状態を見る視点です。会社で長く働いていると、内側からしか自分の会社を見ることができなくなってしまいます。自分の世界が会社という狭い世界と同一になり、会社の目標を達成させることがそのまま自分の人生の目標になってしまいます。これは非常に危険です。会社が今後もずっと存在するのであれば社畜としてある意味幸せな一生を送れるかもしれませんが、企業の栄枯盛衰が早い現代では、いくら忠誠心をもったところで報われるとは限りません。
会社抜きで成り立つ目標を
もし自分の抱いている目標が、会社という存在を抜きにすると成り立たなくなるような目標だとすれば、それは結局のところ会社に依存しているのと同じです。もちろん、自分の目標を達成するために、会社を利用することはまったく問題ありません。問題なのは、会社の目標達成のために、自分の人生が利用されてしまうことです。
会社と自分の人生はあくまで別物であるという考えは、常に忘れずに持ち続けるようにしたいものです。
日野瑛太郎
ブロガー、ソフトウェアエンジニア。経営者と従業員の両方を経験したことで日本の労働の矛盾に気づき、「脱社畜ブログ」を開設。現在も日本人の働き方に関する意見を発信し続けている。著書に『脱社畜の働き方』(技術評論社)、『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』(東洋経済新報社)がある。
(タイトルイラスト:womi)
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