投資の初心者が知っておくべきこと、勘違いしやすいことを、できるだけ平易に解説しようと思います。為替レート、株価、金利など、過去の相場を知ることは投資判断に役立つはずです。そこで今回は、変動相場制に移行した1973年から1995年までの米ドル円相場を振り返っておきましょう。米ドル安・円高の時代です。
固定相場から変動相場へ
第二次大戦後しばらくしてから、ブレトンウッズ体制の下、米ドル円は1ドル=360円に固定されました。米ドルは基軸通貨としての地位を確立し、固定相場制はしばらく続きました。しかし、ベトナム戦争による米経済の疲弊などもあって固定相場の維持が困難になり、1971年8月15日、ニクソン政権は突如、米ドルと金の兌換停止を発表。いわゆるニクソン・ショックです。
1971年12月、米ドル円は1ドル=308円に切り下げられましたが(スミソニアン体制)、それでも固定相場の維持は難しく、1973年4月に米ドル円は変動相場制に移行しました。
それから1995年春までの期間は、日本経済の台頭と日米貿易不均衡の拡大を背景に、ほぼ恒常的に米ドル安・円高圧力が生じました。例外は1980年代前半で、1981年に就任したレーガン大統領が「強いアメリカ」を標ぼうして、軍事拡張や所得税減税を推進。財政赤字の拡大に加えて、二度の石油ショックによるインフレの高騰もあり、米金利が大幅に上昇しました。海外からの資金が高金利に引き付けられ、米ドル高が進行したのです。
ただし、実力以上の米ドル高によって米国で産業空洞化が起こり、貿易赤字が拡大。財政赤字とともに「双子の赤字」として米経済低迷の象徴となりました。
米ドル高是正と日本経済
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで先進5カ国(G5)が為替相場の安定で合意し、米ドル高是正策を打ち出します。いわゆるプラザ合意です。
米ドル円はプラザ合意前の1ドル=240円前後から1週間で20円下落し、その後も下がり続けました。そのため、1987年2月22日にパリ・ルーブル宮殿で先進7カ国(G7)がドル安阻止で合意。しかし、政策協調の乱れやそれを一因としたブラックマンデー(1987年10月19日のNY株式大暴落)などもあり、米ドル円が下げ止まったのは1987年末で、1ドル=約120円でした。
米ドル高是正策は、日本の平成バブルの生成と崩壊に深く関わっています。1986年に当時の日銀総裁の名を冠した「前川レポート」が公表され、国際協調のための内需拡大・市場開放・金融自由化の必要性が指摘されました。そして、内需拡大のための財政出動や超低金利政策がバブルを生むことになったのです。
日経平均株価は1989年末にピークをつけて下落に転じ、不動産価格も1992年頃には下落基調に。平成バブルの崩壊は徐々に明らかになりました。ただ、1990年代前半も日米貿易摩擦は続行。対象は特定の貿易財から、経済構造へと拡大されました。とりわけ、1989~1990年の日米構造協議、1993~1996年の日米包括経済協議などを通じて、日本に対して、市場開放や金融自由化などが求められたのです。
1995年に入ると、それまで1ドル=100円前後で推移していた米ドル円が急落して一時80円を割り込む事態となります。米国経済は製造業の衰退により活力を失っていたことや、1994年春以降の段階的利上げによる景気減速、また同12月に発生したメキシコ通貨危機の影響もあったようです。
1994年当時の名目GDPは、米国が7.3兆ドル、日本が500兆円になります。1ドル=80円で換算すると、日本の名目GDPは6.3兆ドルとなり、もう少しで米国を抜いて世界で1番になるところだったのです。1ドル=80円がいかに円高だったかがわかります。
米ドル円は2011年後半にも1ドル=80円を割り込みました。ただ、2011年当時の名目GDPは米国が15.5兆ドル、日本が492兆円。1ドル=80円で換算すると、日本の名目GDPは6.2兆ドルで、米国の4割に過ぎません。日本がバブル崩壊の後遺症に苦しんでいた17年間にそれだけ大きな差がついたのです(2011年の「1ドル=80円」は1994年の「1ドル=80円」ほど円高ではなかったという言い方もできそうですが)。
次回は、1995年以降の米ドル円相場を振り返ります。