一生分のワイドショーを見たんじゃないかというくらいにテレビを見続けた週末だった。いうまでもなく吉本芸人の闇営業関連の話題を取り上げた番組類だ。厳密にいえばテレビ放送のみならず、ネット配信の映像も含んで堪能した。
自分で情報を吟味できる時代
なんだか日本中が選挙よりもこっちの方に興味があったんじゃないかと思えるくらいだ。ただ、この原稿を書いている時点(7月22日朝)ではまだ先が見えない。
今は、全録ビデオのような便利な機械もあるので、A局はこうで、B局はこうだったというような分析がごく普通の家庭であっても可能だ。大事件のあとに、朝毎読日経に加えて各スポーツ紙を並べて内容を吟味するようなことが、テレビコンテンツでもできるようになった。そして多少の時差を伴って週刊誌がそれぞれの分析と追加取材の結果を伝えることになる。
おかしなたとえかもしれないが、同じ素材を使っても調理人が異なれば味は変わる。さらに同じ料理でも盛り方が異なれば、気持ちの上での美味しさは変わる。同様に、テレビコンテンツから得られる情報も各局各様で、何をどう信じればいいのかわからなくなりもする。何も信じられないというのではなく、送り手側は異なるスタンスで編集した情報を取捨選択して編集し、断片的に提供する。その中から、ひとつのストーリーを視聴者が自分自身で導き出さなければならない。
どんなコンテンツにも“意図”がある
昔と違って、こうした記者会見も全編生中継があり、さらにそれをオンデマンドで再生することもできる。会見に立ち会ったメディアは、それぞれのメディアにその内容を持ち帰り、素材として咀嚼し、調理した上で自らのメディアに載せる。
テレビメディアは映像なら映像、活字メディアはテキストならテキストといった具合だ。そしてそこには必ず情報の送り手側の意図が加わる。厳密にいえば生放送の垂れ流しに見える映像にも意図は介在する。カメラがどこを切り取るかには、その場の判断があるからだ。複数のカメラがあったとしてもスイッチング(切り替え)はディレクターの意志によるものだ。だからこそ、このようなコンテンツであっても、流しっぱなしの「放送」ということはありえないと考えた方がいい。
情報の受け手は、本当に真実が知りたければ、持てる手段を駆使して情報を集める必要がある。ただ、それは真実が知りたいという奇特な動機があった場合の話で、多くの場合は、なんとか情報の方向性が収束するのを待つという受け身的なスタンスで、ことの成り行きを見守るのではないだろうか。そういう意味では情報の受け手ではなく情報の消費者といえるかもしれない。
情報は知識にあらず、事実は真実にあらず
活字のメディアが「××はわれわれのインタビューに応じることはなかった」と記述するのに対して、映像メディアは当事者の玄関インターフォンをピンポンし、応答がなかったり、うるさいと怒鳴られたり、丁寧に断られたりといった一部始終を伝えることで、取材する側と取材される側の関係性を表現することができる。
視聴者はそれこそが真実だと思い込みがちだ。でも、決してそれがすべてではないことを、ほんの少しでいいから頭の片隅においておくほうがよさそうだ。
真夏の暑い日にハンカチで汗をぬぐいながらインタビューに応える市民の映像は熱い夏を想像させるが、そのインタビュー映像の裏には、強い冷房で体が冷え切って寒すぎると訴える市民のボツ映像もあるかもしれない。つまるところは、ありのままのニュースなどありえないということだ。
(山田祥平 http://twitter.com/syohei/ @syohei)