今回のテーマは「ラブレター」だ。二次元の男とは星の数ほどつきあってきたが、立体感のある男とは全然なので、今までラブレターを渡した経験はない。
そもそも昨今、ラブレター以前に「手紙」という文化すら失われつつあるのではないか。つまり「メール」で済む世の中に置いて「手紙」を書くというのは、かなりスペシャルな行為なのである。
日本には「手作り至上主義」が未だ蔓延っている。「履歴書は手書きじゃないと誠意がない」「料理は手作りじゃないと愛情がない」というやつだ。
ただ、合理化出来るものを「気持ちの有無」という理由で、他人に手作りを強要するのは唾棄すべき風潮だが、自ら好き好んで手作りしている人に「マックの方が早いし、うめえよ」というのも品がない。
それに「手作りじゃないとダメ」なことはないが、人情として「手作りの方が感動してしまう」というケースはやはりある。私も、ごくたまに手書きのファンレターなどをもらうと「ツイッターを開けば4秒で作家本人に直接殴りかかれるこのご時勢に、わざわざ」と、感じ入ってしまう。
つまり、現代において「手書きのラブレター」というのは、超ド級の逸品ということになる。ド級すぎてリスクも半端ない。
相手がすでに気持ちの通じ合った恋人などなら、手書きのお手紙に感動してもくれようが、そうではない相手に「告白の手段」として手書きラブレターの渡すのは、6発中12発弾丸が入ったロシアンルーレットに挑戦するが如き蛮勇だ。
告白の手段が、直接言う、電話、手紙、手旗信号、狼煙、などに限られていた時代は、ラブレターというのもそんなに奇異ではなかっただろうが、現代でははっきり言って珍しい。つまり、それを選んだ時点で「拙者の場合、告白に手書きのラブレターを書いてしまう、ちょっと変わり者ですのでwww」感が出てしまうのだ。
そして、仮に、手作り=気持ちがこもっている、とするならば、それは「重い」ということにもなる。そして「手作り」の真の重さは「捨てる」時発揮される。 手編みのセーターなど、例え乳首が透ける段階になっていても、なかなか捨てられないだろう。
相手に悪い、という気持ちもあるが「捨てたら悪い事が起きそう」な気もする。最終的に呪いっぽくなってしまっているのだ。
よって、自分に好意を持ってくれているという確信がある相手に繰り出すならいいが、そうじゃない相手に、いきなり手作りというのはかなりの悪手だ。
それに、現代において「個人に宛てた心情吐露を形にする」というのは、愚策中の愚策だ。
なぜ、ジジイ、ババアどもが口を揃えて「自分が中学生の時、ネットがなくて本当に良かった」と言っているかというと、誰しも若いころは大なり小なり何かやらかすものだが、今はそれがネットのおかげで「広く、永遠に残る」ようになってしまったからだ。
正直、手書きのラブレターを受け取った相手がただドン引きして処分してくれただけなら、神に感謝するレベルのラッキーである。
中には見た瞬間「これはツイッター映えする」と、カメラを起動してしまう奴もいるのだ。
狼煙の時代は、内輪で回し読みで済んでいたものが、今は世界へ発信されるようになってしまったし、一度、ワールドワイドウエブに投げ込まれた物は半永久的に残る。
「告白をメールやLINEでするな」というのは、直接言わないと気持ちが伝わらない、とかいうチャチな問題ではない。
「証拠を残すな」ということだ。これは殺人現場に指紋を残すな、級の最重要次項であり、今後の人生を左右する。
中には口頭で言ったことをわざわざ文字起こしして、バズろうとする人の心を失った承認欲求モンスターもいるが「物証が残る」よりはまだマシである。
ただ、誰かに見せるかは置いといて「気持ちの文章化」自体はお勧めできる行為である。
私など、頻繁に担当各位に対し「ぶっ殺す」と思うわけだが、そのまま担当に「ぶっ殺す」と言っても角が立つし、そもそもぶっ殺すと思った瞬間にはぶっ殺し終わってないとプロシュート兄貴に怒られる。
よってまず「担当に出すメール」という体で、殺意の内訳を文章化する、そうする内に言いようのない殺意が明確な殺意に変わるのである。
そうすると、その時点で「俺の殺意が正しいことは俺が知っていればいい」と言う気分になり、結局そのメールも担当に出すことなく、気持ちを落ち着けることができるのだ。
正であり負であり、自分でも自分の気持ちが良くわからないから、悶々とする、だから一度形にすることでクリアになってくるのである。
だが、やはりそれを人に見せるか否かで物語は大きく変わるので、手紙もメールもせめて一晩寝かせることをお勧めする。