花粉症の季節である。言っただけだ、私は花粉症ではない。しかし最近では花粉症じゃない奴の方がマイノリティのようで、先日仕事で10人ぐらいに会ったが、花粉症でないのは私だけで、絶滅危惧種、と言われた。
よって花粉症でないことをしきりに羨ましがられるのだが、そのたびに「私が花粉症になったらかわいそうだろう」と言っている。
何せ当方、履歴書の長所欄に「花粉症じゃない」と書くレベルである。もし花粉症を発症してしまったら「自発呼吸をしている」としか書けなくなってしまう。つまり、私が花粉症じゃないのは神の慈悲であり、最後の砦なのだ。
そういう話をすると大体の花粉症の人間が「まだ花粉症の方がマシだな」という顔になるので、広い意味で私は花粉症を救っている救世主(メシア)と言っていいだろう。
このように春になると「花粉症じゃないマウンティング」という地底の底みたいな低い自慢をする私だが、花粉症界隈の中でも序列があるようである。
どうやらその序列内では「症状がひどい方が偉い」ようである。花粉症が集まると各々辛さや「自分はスギで」のような花粉症トークがはじまるのだが、そのうち真打ちが「お前はまだ本当の花粉症を知らない」みたいな感じで「鼻水と涙の出過ぎで脱水症状で点滴を打った」というようは花粉症界のスベらない話みたいなのが疲労され、周りの平花粉症が「勉強になるっす」みたいな感じで感心しているのである。
このように世界には「さらなる低みを目指す」マウンティングが存在し、みな日々切磋琢磨しているのである。
花粉症ではないが、最近年に1回ぐらい風邪を引くようになってしまった、これでは何のためにバカをやっているのかわからない、風邪を引くバカなど、小説の才能がない太宰治ぐらいヤバい。
風邪の症状はどれも辛いが、外で働く人間にとって一番辛いのは鼻水ではないだろうか、熱が40度あれば潔く休む気になるが、観測史上最も高い鼻水降水量を記録した、というだけではイマイチ休みづらい。つまり、鼻風邪というのは、学校がギリギリ休校にならない中途半端な台風みたいなものである。
しかし、鼻風邪というのは業務に目に見えて具体的に支障を来たす。なぜならそれは熱や咳などと違い、他人からも肉眼で観測できるで出て来てしまうからだ。つまり熱や咳などの風邪が概念なら、鼻風邪は物理である。
しかも鼻水、というのは痔などと同じく、本人にとっては深刻なのに、他人から見ると、ちょっと面白いぐらいに思われてしまう疾患である。つまり顔色が悪ければ心配してもらえるかもしれないが、両鼻からパーカーの紐みたいに鼻水が垂れている奴は心配されずらいし、されたとしても頭の方をされる可能性が高い。
しかし、風邪の鼻水というのは制御不安であり、石油だったら一財産築ける規模で出てくる。よって、定期的に鼻を噛む必要があるわけだが。
どれだけ慎重に、野に咲く花を手折るが如く(鼻だけに)優しくかんでも結構な音がするので、仕事場では目立つのである。しかし、鼻を噛むたびに、席を立っていたら、ほぼ一日中席を離れることになってしまう。さらに噛めば噛むほど鼻の下が荒れて痛くなる。
そこで私は一度、職場で「ノーガード戦法」を試してみた。まずマスクをかけ、人からは見えないようにする、そしてどれだけ鼻水が出てこようが噛まない、という戦法だ。
もちろんマスクの中では縦横無尽に鼻が垂れているが、他人から見えなければ別に良いのでは、という逆転の発想である。
そしてしばらく、その戦法を実践してわかったが「鼻が垂れている状態は自分が気持ち悪い」のだ。鼻からゲル状の物が垂れ流しなのだから当たり前なのだが、幼少期私は普通に鼻を垂らしていた。
子どもと言えど気持ちが悪ければ鼻を噛むだろうし、それに対し人目を気にしたりはしないだろう。では、子どもの頃は鼻が垂れていても平気だったのか、私は成長と共に大切なものを無くしてしまったのか、と思ったが、当時は『袖で拭いていた』ということを思い出した。
なるほど、それなら音もしないし画期的である。しかし、鼻を噛む音と、袖口が鼻水でカピカピになっているの、どちらの方が社会的死をもたらすだろうか。大人になるというのは、鼻水のひとつもたらせない不自由なことである。