今回のテーマは「洗濯機の作法」だ。我が家では朝、夫が風呂掃除と洗濯ものを干して、私が弁当と朝食を作るのだが、夫の起床時間は結婚以来、徐々に早くなり、最近では期間限定らしいのだが、4時半に起きるようになってしまった。70歳児のように元気である。もはや一周してしまうのも時間の問題である。

さすがについていけないし、7時半出社の私が3時間前に起きる意義が見出せぬ。よって、一緒に起きるのをやめたのだが、すると私が起きる頃には、夫は洗濯はもちろん、私の役目であった朝食や弁当まで自分で済ませていたりするのである。すでに6時に起きても、寝坊したかのような空気だ。

だが、夫がそれに関して何か文句をいうことはない。あくまで自発的に早起きして、家のことをやっているのである。悪い流れだ。もちろん、夫にとって。やってもらえる上に、それに対して文句も言われないと、人はいとも容易く「やってもらえるならいいか」になってしまう。そしてその「いいか」の精神で、家事分配の比率は崩壊するのである。

やらない側は「言われたらやろう」ぐらいの気持ちなので、逆に言えば、やる側が言わない限り永遠にやらない。まだ「言われたらやる」ならいい。「ちょっとはやってよ」と言われるや否や、「お前が勝手にやってたんだろう」という、この一言で、あなたも今日から「クソ野郎」というキラーセンテンスを吐いてしまう場合すらある。

やはり、家事、特に掃除系は、キレイ好き、几帳面な人間が圧倒的に不利だ。ズボラな人間は多少の汚れでは気にならないので、掃除する必要性さえなかなか感じないのだ、よって、気になる方が先に掃除してしまい、やらない方は「掃除はしてもらえるもの」、あまつさえ、「掃除しなくていいのに向こうが勝手にやっている」と思ってしまうのである。

いわば、先に動いた方が負けのチキンレースみたいなものだが、だらしない人間は、クマムシ級の耐久度を誇るため、大体几帳面な方が負ける。自分じゃ何もできない。昭和の遺物はこういうメカニズムでできあがるのか、としみじみしたが、すでに自分自身が、鎖骨ぐらいまで遺物である。

これではいかんと、今日は5時半に起きたが、やはり夫はすでに起きており、風呂掃除と朝食を済ませていた。イカれている。と若干思ったが、幸い弁当と洗濯ものがまだだったので、そのぐらいは自分がやることにした。

ベランダに出ると完全に夜だった。そして12月である。寒い。とても人間が起きて活動する状況とは思えない。しかし、世の中にはそんな状況の中、文句も言わず家事をして、感謝されもしない人がたくさんいるのである。

やはり家事は重労働である。冬の朝、外に出て洗濯をしなければいけないという時点で重い。しかし、現代人の恵まれているところは、洗濯するところまでは洗濯機がやってくれる、という点である。

その洗濯機の調子が最近思わしくない。洗濯機がなくなる、つまり現代人でない、つまりジャワ原人である。人間であるためには、常に洗濯機をもっておかなければいけない。よって、夫に「そろそろ洗濯機を買い換えねばならぬかもな」と言ったところ、「でも、あれ30万ぐらいしたよね」とレスがきた。

え? マジ?? そんなにした??? 正直8万ぐらいの認識であった。なぜそんな高いものを買って記憶にないかというと、結婚を機に、家具、電化製品を一式一気に変え揃えたため、合計でいくらというのは覚えていても、個々の値段は記憶にないのだ。また、家具や電化製品など安くないものを一気に買うと、金銭感覚が狂う。30万の洗濯機も勢いで買ったに違いない。

しかし、狂っている時の30万は無痛かもしれないが、正気時の30万は致命傷である。今回は安価なものを買えばいいのかもしれないが、何せ8年ぐらい30万したらしい洗濯機を使ってきたのだ。安いものを買って、あからさまに不便になるのはきつい。

本業、"不幸ソムリエ"として、様々な他人の不幸をテイスティングしてきたが、その中に「収入が下がったのに生活水準を落とせなかった」というのが結構ある。それを聞いて、「そんな馬鹿な」と思いながら舌鼓を打っていたが、今なら気持ちが分かる。やはり、洗濯機から洗濯板、人間から原人にはなかなか戻れぬものである。

だが、まあ洗濯するのは主に夫だし、「いいか」と思う自分もいる。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。