今回のテーマは「DIY」だ。
前回あれだけ私にDIYをやらせるな、と言ったのに、担当は意志が強いと思う。それに敬意を表して、私も久しぶりにDIYにチャレンジしたい。ただ、私のDIYは「Do It Yourself」ではなく「Destroy It Yourself」であり、もちろん「It」は担当だ。この場合、逆に「Yourself」以外ありえない。こいつは俺の獲物だ。お前らは手を出すな。
しかし万が一、「It」が担当でなかったとしても、「Destroy」には変わりない。何かを作り出すはずが、別の何かをデストロイしているのが私のDIYである。DIY、つまり、「買うより手作りしよう」ということである。
優秀な既製品が安価で手に入る日本である。手作りが節約になるとは言い難いし、できた物も既製品以上とはなかなかいかないだろう。しかし、手作りの品には手作りの良さや味があるし、作る過程込みで楽しいならDIYは大いにありだ。
しかし私の場合、まず手先が致命的に不器用かつガサツなので、DIYをやらせると大体ゴミを作るし、ゴミを作るために周りをゴミだらけにするのである。さらに飽きっぽいため、ゴミですら作る途中で投げ出す場合が多い。
ゴミなら捨てることができるが、「作りかけのゴミ」というのは、本人はもちろん捨てないし、家族も捨てることができない。捨てようものなら、「まだ作りかけだったのに」と烈火のごとく怒り出すに決まっている。もちろん、作成を再開する可能性はゼロに等しいし、万が一完成したとしても「完成したゴミ」である。つまり、ずっとゴミがあるということだ。
よって、不器用でガサツで飽きっぽいが、趣味はDIYという人間が家族にいるというのは、非常に厄介なことなのである。まず、こいつをデストロイした方がいい。
幸い、私は手作りの趣味がない。全てのものを既製品で済ませるし、料理は辛うじてやるが、クックドゥ的なものを使うことが多いし、弁当においてはほぼ冷食と惣菜オンリーだ。
しかし、こと料理においてはいまだに「手作り神話」がはびこっている。冷凍食品や惣菜はもちろん、時にはクックドゥ的なものを使うことすら「手抜き」だと言われてしまうのだ。私の料理が手抜きなことは否定しない。しかし、そこからさらに発展し、「配偶者や子どもに手作り飯を作らない女は愛情がない」というところまでいくと話は別だ。
まず前述した通り、日本は質のいい既製品が安価で手に入る。つまり、クックドゥはうまいのである。クックドゥは少し高級だが、トップバリュ的なものでも十分うまい。少なくとも、私が一から作るより確実にうまく、そして何より失敗がない。
私が時間をかけ、愛情込めて失敗した料理を夫に出したところで、夫にしたら愛情の有無なんて分からないし、ただのまずい飯である。分かってもらおうと思ったら、「この飯はまずいが愛情は入っている」と逐一言わなければいけない。うざいだろう。そんなの、付き合って一週間目以外は許されない。
むしろ、私財でクックドゥを買い、食える飯を食わせるのが私の愛情だ。それに相手が大人なら、「まずいが、嫁や彼女が一生懸命作ってくれた」という加点をしてくれるかもしれないが、子どもはもっと純粋に、うまいものが食いたいはずである。
既製品を使って5分で作ったうまい飯を食っている子どもが、母親が愛情込めて砂場から集めた砂鉄を食っている子どもより不幸などということはまずありえない。むしろ、仕事や家事で忙しいのに、完全手作り料理を強要され、母親がずっと疲れてイライラしている方が、子どもにとっては良くないだろう。
また、私が弁当をほぼ冷凍食品や惣菜オンリーで作るのは、手抜きもあるが「腐らない」という理由がある。まだ弁当に手作り料理を入れていた頃、夏場は週一で夫から「弁当腐ってた」報告があった。時間をかけた上、相手の健康や気分を害するようでは全損としか言いようがない。それが手作りを廃すことにより、腐り率ゼロになったのだ。相手の健康を気遣うことが愛情でなかったら何なのだ。
確かに手作りは愛情かもしれないが、ケースバイケースであり、手作りでなければ愛情がないということはない。むしろ、既製品に頼ることで守られる家庭平和もあるのだ。よって、私がDIYという名の破壊行為をしないのも、家の平和を守るためなのである。
筆者プロフィール: カレー沢薫
漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。