今回のテーマは「部屋着」である。

まず、部屋着とは何か。部屋で着る服のことだろうが、例えば部屋着がジャージだったとする。それが「2年3組」と書かれているタイプのものでなければ、家の外に出ることも不可能ではない。だとしたら、それは純粋な部屋着とは言えないのではないか。

つまり、純粋な部屋着というのは部屋でしか許されぬ格好、ということになるが、そうなると今度は「寝巻き」との定義が曖昧になってくる。朝起きて、外出の予定がないので、寝巻きで過ごし、またそのまま寝ることがある。そうなると、それはもう部屋着なのか寝巻きなのか分からない。

よって、外出着、部屋着、寝巻きの境界線というのは人によってはかなり曖昧なものである。そして私は現在、その三者の垣根を限りなくゼロにすることに成功した。年齢、国籍、性別、全て、差別なくフリーなのが尊ばれる世の中だ。そう言った意味では最先端であり、ラブ&ピースだ。

しかし、フリーになりたいからと言って、いきなり寝巻きという名のパンイチで外に飛び出してはいけない。改革というのは少しずつ行うべきなのだ。

まず、外出着を選ぶ時のオーディションテーマを変えよう。「カワイイ」とか「カッコいい」などという思想はドブに捨てる。「楽そう」。その一点だ。もちろん安いにこしたことはない。初めて着たその日に肥溜めに落ちたとしても、後悔がない値段が好ましい。また、「強そう」なのも重要だ。ノースリーブの革ジャンとか、トゲつき型パッド、という意味ではない。生地的に強そうなのを選ぶ。

そういうテーマで選んでいくと、自ずと、安価で、サイズでかめ、ウェストゴム、の服がそろってくる。これらの外出着、何かに似ていないだろうか? そう「部屋着」だ。すでに、外出着の部屋着の隔たりがなくなった。このように心をフリーにすることにより、服もフリーサイズになり、いらぬ差別がなくなるのである。そして、部屋着とも外出着とも言えない服装で過ごす内に、あることに気づくだろう。「このまま寝られんじゃね? 」と。

そして、寝られたのだ。この瞬間、外出着、部屋着、寝巻きは見事三位一体となったのである。そして目覚めた瞬間、それは部屋着となり、外に出たら外出着となる。メタモルフォーゼ、千変万化だ。

このライフスタイルの一番いいところは愛と平和の実現だが、その次にいいのは「着替え」というアクションが減るということである。名誉のために言うが、着替えるのが面倒というわけではない。さすがにそこまでものぐさではない。

しかし、着替えという動作を行うと発生してしまうものがある。それは「脱いだもの」だ。ひたすら重ねて着ていくというスタイルでない限りは発生するはずである。そして、脱いだものはどうしないといけないか。そう、洗濯機に入れなければならない。

それができないのだ。風呂場で脱いだものなら、流石に入れる。窓から捨てたりはしない。しかし、別の部屋で脱いだもの、こいつはダメだ。わざわざ洗濯機に入れにいくなんてできるはずがない。穴掘って死体を埋めるぐらいの重労働だ。

だが、名誉のために言うが流石の私も、脱いだものを床に置いたりはしない。では、どこに置くかというと、椅子の背もたれだ。というわけで、現在私の椅子の背もたれには、大小合わせて10着は衣類がかけられている。量が多すぎてケツの部分まで侵食しているので、座り心地は最悪だ。

しかし、それに耐えてでも、脱いだものを洗濯機に入れるのが面倒なのである。ならば、脱ぐというアクションを減らしていくしかない。必然である。

それでも、部屋着と寝巻きはともかく、それで外出をするのは抵抗がある、という人はいるだろう。確かに、変な格好で外に出ても、独り身なら近所のちょっとスパイスの利いた人で済む。しかし、家族がいたり、人の親だったりしたら、そうそうみっともない姿は世間に晒せない。

その場合は、「外に出る」というアクションをなくせばいい。実はこの「外に出る」という動作こそが、面倒ごとどころか万難を招くのである。「事件は会議室で起こっているのではなく、現場で起こっている」という名言があるが、あれは逆に会議室を出てしまったから事件が起こったのだ。部屋から出ないと、割と何も起こらない。さらに洗濯物も減って、一石五億鳥である。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。