漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「健康食品」だ。
若いころのガールズトークの主なテーマは「恋愛」「美容」そして「悪口」であったが、一定の年齢を超えると「健康」「親がすげえ老けた」そして「悪口」へとトークテーマが変遷する。
ここから「親の葬式」から「自分の葬式」にシフトしていくのか、それとも純粋な「悪口」のみが残るのか、まだまだ目が離せない。
年を取ると金の使い道も変わっている。
私も昔は美容やダイエット商品に結構な金をかけていた気がするが、最近は主に「ガチャ」に金を使っている。
これは年を重ねることにより「物の価値」が理解できるようになったからと言える。
己の顔面と推しの絵が描いてあるJPG、どちらの方が価値があるかなど文字通り一目瞭然だ。
しかし、若いころはそれすら理解できなかったのだ。
つまり、年を取ることにより正しい「判断力」が身についた、ということだ。
また加齢により「自己肯定感」が高まったともいえる。
若いころは「オシャレな服に自分の体のサイズを合わせなければいけない」と、たかが布ごときにへりくだった姿勢だったから、ダイエット商品なんかに金を使っていたのだ。
それが今では「服が俺に合わせろ」という人間らしい発想を取り戻すことができた。
布、つまり他人のために自己を変えなければいけないという強迫から解き放たれたということである。
基本的にウエストがゴムの服の方が安価なためコスパ的にも良い。
実際、日本の女は「中年になってから楽になった」という者が多い。
だが、逆に言えば中年にならなければ楽になれない風潮がある、ということだ。
「ババアになれば楽になるんだから待ちなさい」と言うのではなく、初手からずっと楽で良いはずである。
よって若人は、自分のためにダイエットしてオシャレな服を着ようとしているのなら良いが、もし他人の目を気にしてそうしているなら、ババア待ちなどせず、今すぐダイエット本という書を捨て、ウエストゴムに履き替えた後、外に出たければ出て、出たくなければ家でネトフリでも見れば良い。
人生百年といっても期間は限られているしその中でも若い時間は貴重だ。一秒でも早く自由になるにこしたことはない。
そんなわけで、物の価値を正しく知った私は「自己投資費」の大幅削減に成功したのだが、それでも「健康」に対する投資はやめられてないし、むしろ増加傾向だ。
実際40歳にもなると体にさまざまな不具合が現れ、健康の大切さを実感することになるため、自ずと「健康」と銘打たれた物に惹かれ、金を使いがちになる。
しかし、40歳になって急に不健康になったわけではない。
今までのツケを40歳になって一括で取り立てられたのである。
おそらく若いころから健康に気を使って規則正しい生活を送っていた人間は40歳になっても割と元気なはずである。
この取り立ては老になるとさらに厳しくなり、100歳になっても元気な老もいれば70歳でもう秒読みに入っている老もいたりと差が激しくなってくる。
つまり現在の健康投資で数十年後差がつく、ということだ。
しかし、健康というのは投資すれば手に入るというものではない。
ダイエット商品も買うだけでは痩せない、むしろ買っただけで痩せたつもりになり、さらなる体積増加に成功する方が多かった。
健康も同じだ。
「健康食品」と言っても、正式名称は「健康補助食品」なのである。
つまり「お前の健康になろうとする努力を補助する食品」なのだ。
よって、努力がゼロならゼロに何をかけてもゼロなのである。
むしろ「健康食品を使っているから」という免罪符によりさらなる不摂生をしてマイナスになる可能性もある。
健康食品は、これさえ食えば健康になれる食品ではないし、まして己の不健康行為をチャラにしてくれるものではない。
あくまで「規則正しい生活とバランスの取れた食事、適度な運動」前提で、その効果を高めるブーストアイテムでしかない。
つまり、健康食品など買わずとも、規則正しい生活とバランスが取れた食事と運動さえしておけばある程度の健康は保証される、ということなのだが、それができない奴が健康食品を買うのである。
しかし、これらの健康三大行動が取れないのは、本人の怠惰の問題だけではない。
何故なら「バランスが取れた食事」というのは結構コストがかかる。
この物価高で「健康になりたければバランスの取れた食事をとればいいじゃないの」などと簡単に言うアントワネットは、裁判なしでギロチンに送っていい。
誰もが健康的な生活を送れるわけではない社会において「健康は自己責任」というのは、政治の責任を国民に転嫁しているのではないか。
まずは全国民が健康的な生活を送れるようにしてほしい。
我々が努力するのはそれからでも良いだろう。