漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「不惑」である。
不惑とは40歳のことである。
だが、自分の年齢を不惑と名乗るやつは「それはとらぬ狸の皮算用というやつですな」など、慣用句をふんだんに取り入れた面倒くさい説教をしてきそうであまり近寄りたくない。
ではいつ「不惑」という言葉を使うのかと言うと、Fから始まる欧米で使用したら射殺やむなしなワードをどうしても声に出したいときに連呼するのに使われる。
しかし、その後「不悪口」という、語感も字面も強い上位互換ジェネリックFが開発されてしまったため、いよいよ使われることが減ってきた。
もともとの意味で使えば良いだけなのだが、不惑とは「惑うことがない」という意味である。
たかが40歳で悟りを開いた仙人気取りとは片腹痛い。
そんなことを言ったら湯婆婆に「贅沢な名前だね、お前は今日から腋下痙攣丸だ」とさらに難解な名前をつけられるか「もう惑わない!」とポーズを決めた瞬間マミさんになるに決まっている。
「不惑」というのは孔子が「論語」の中で説いた言葉だそうだ。
確かに孔子ともなれば40歳で惑わなくなったのかもしれないが、そんな汎用性のない話を全人類への教えみたいに説かないでほしい、ちゃんと「俺じゃなきゃ惑っちゃうね」と言うべきだ。
昔は寿命が短かったため、40歳にしてすでに「惑っている内に死ぬから惑うことすらできねえ」という意味なのかと思ったが、孔子は70歳まで生きる想定で論語を書いており、本人も74歳まで生きているので現在とそこまで寿命に大差があるわけではない。
一体孔子は何を思ってたかが40歳で「惑うことはない」などとでかいことを言ってしまったのか。
「不惑」の解釈には諸説あり、必ずしも「惑わない」という意味を指すとは限らないらしいが、40歳で何らかの悟りを開くという意味なのは確かだろう。
もしかしたら40歳になると惑わなくなるのではなく「惑うほどのことがなくなる」という意味なのかもしれない。
確かに、若いころは、進学、就職、結婚、など大きな人生の岐路がいくつもあるものだ、しかし40にもなるとそこまででかい分かれ道はないし、あったとしてももはや自分に選択権がないケースが大半だ。
そんな自分の意志では進むことも戻ることもできない、ただ風に煽られてヒラリヒラリと舞い遊ぶアゲハ蝶状態を「不惑」と表しているとしたら、さすが孔子である。
孔子の時代と寿命に大差ない、と言ったが、よく考えてみればすでに「人生100年」と言われている。
40歳と言ってもまだ折り返し地点にも到達していないのだから、まだ惑うぐらい選択肢が残っていても良さそうなものだが、残念なことに職業の選択肢などはかなり限られてくる。
職を選ぶのではなく「職を捨てる」という思い切った選択は残されているのだが、大体その道は行き止まりになっており、100歳どころか孔子よりも早死にする結果になりかねない。
40歳に相応しい経験と実績があるならまだ選択肢はあるだろうが、あらゆる意味でホワイトな経歴を持つ40歳にご用意される選択はかなり限られたものになってしまう。
もちろん頑張り次第でそこから選択肢を増やすことは可能だろうが、そんなガッツがあるなら最初からこんなことにはなっていないような気がする。
そもそも日本は再起しようとする人間に冷たい国だとも言われている。
今はそんなことはないと思いたいが、一昔前まで面接に行ったら履歴書の空欄に対し「この間なにやってたの?」と半笑いで尋ねられ、説教された上に不採用という話がよくあった。
確かに(株)自宅のウンコ製造班のチーフとして10年無遅刻無欠勤を達成したことは事実かもしれない。
しかし、そこから抜け出したい意志があるから今ここにいるのだ。
アイマスクにヘッドフォンをした状態で面接室に入ってきた、と言うなら別の人間の意志が働いている可能性があるが、そうでなければおそらく自分の意志である。
そんな意志を折って自宅に叩き帰すようなことを言う人間の方がある意味社会にとって害だ。
しかし、幸い少子高齢化は加速する一方である。
もう少し待てば、たとえろくな経歴がない40歳でも「期待の若手」として歓迎される日が来るだろう。
たとえパソコンが使えなくても、パソコンを物理的に「運べる」というだけで即戦力である。
ちなみに「不惑」には「固定観念がなくなる」という解釈もあるらしい。
個人的には未だに固定観念と偏見だらけで、被害妄想は強くなる一方だが、若いころ持っていたような「こだわり」はなくなってきたように感じる。
これはこだわりから解き放たれたのではなく、体力の低下によりこだわるのが「面倒くさくなった」のと「もうババアだからどうでもいいし勝手にしやがれ」という捨て鉢のせいだと思われる。
逆に若いころは体力があったため、時間があれば何かしなければいけないような気がしていらないことをしていたので、そういう意味では老化も悪いことばかりではない。
もしかしたら「不惑」は「惑う体力もないから惑わない」という意味なのかもしれない。