漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「相談」である。
仕事には「ホウ・レン・ソウ」、結婚には3つの玉袋が大事と言われている。
「ホウレンソウ」は「報告」「連絡」「相談」、3つの玉袋は「玉袋」「玉袋」そして「玉袋」である。
「ホウレンソウ」は要約するに常に周囲と情報を共有し協力して業務を行え、ということであり、新人時代は特に大事な社会人の基本中の基本である。
逆に言えば「ホウレンソウ」ができない人間が社会に出るというのは、野に1匹の凶暴な野生動物が放たれたのと同じなのだ。
周囲は悪気なくジャレ殺してくる毛のないヒグマに日々ストレスを感じなければいけないし、獣の方も自分では何も悪いことをしている意識がないのに気づいたら周りが全員猟友会のキャップをかぶっているのだ。
つまり、周囲もキツいが自分もツラいというルーズルーズ現象が発生する。
そして私も言うまでもなく、ホウレンソウを種の段階で腐らせているタイプの人間だ。
それでもしばらく会社という名の人里で暮らし、地域住民の方に多大なストレスを与えてきたのだが、ついに「村長、もうやるしかねえだよ」という会合が開かれたのか、村長とその後ろにいるたいまつを持って顔が逆光になっている村民の方々の説得により、山という名の自宅に帰され二度と里には行けなくなった次第である。
だが、人間の方からすればなぜ我々野生動物が「ホウレンソウ」という単純な行為ができないのか不可解だと思うし、正直自分でもわからない。
しかし、一応プロフィールに「遺伝子上人間の女(笑)」と書いている以上「動物が2足歩行できねえのは当たり前だろ」などという逆ギレはできない。
なぜできないのか明らかにし、少しでもできた方が良いだろう。
まず基本的に「面倒くさがり」であることは否めない。
面倒くさがりというのは面倒を避けようとする気持ちが強すぎるため「ホウ・レン・ソウ」がいかに重要であっても「メン・ドウ・クセ」の重要性に勝てないのだ
また相談のソウ以前に「想像力」のソウが足りていない気がする。
これをホウレンソウしないと大変なことになるかもしれない、という想像力に欠けている、もしくはメンドウクセに想像力を操作され「このぐらい相談しないで1人でやってもどうってことはない」という想像の方を採用してしまっているのだ。
そして想像力のなさは「他人の気持ち」にも遺憾なく発揮される。
他人の気持ちが想像できないため「どういう報告の仕方をすれば相手に伝わるのか」ということがわからないのである。
どう伝えれば良いのか悩んでいるうちにメンドウクセが「もうよくね?」と肩を叩きにきてしまうのである。
特にホウレンソウの中でも「相談」は難易度が高い。
報告と連絡は起こったことをそのまま伝えれば良いだけだし、よく見れば意味がかぶっているような気がする「玉袋」を「玉袋」と言っているようなものだ。
つまりホウレンは「起こったことをそのまま伝え、伝え終わったら爆発する」という一方通行コミュニケーションでもギリギリ通用するのである。
だが「ソウ」は違う。
コミュ症にとって「ソウ」は「SAW」であり「あなたの目の中に鍵がありますのでえぐり出して脱出してください」というぐらい難易度が高いのだ
まず自分の意見を相手にわかるように説明するだけでも難易度が高いのに、なんと相手はそれに「別の意見」、最悪「反論」をしてくる可能性があるのだ。
ただでさえ人の気持ちがわからないのに、さらに人の気持ちが変わるように「説得」するなど難易度が高すぎる。
さらにそれを「暴力」を使わず言葉だけでやれと言うのだから無理ゲーにもほどがある。
よって、相手の意見に対し「わかったそうする!」と盲従するか、相手がなんと言おうと自分の意見をゴリ押しするかの2択になりがちなのだ。
たまに「相談」と称してファミレスに呼び出してくるが、結局こちらが何を言っても、すでに用意していた自分の意見を曲げずに帰っていく奴がいる
呼ばれた側は「じゃあ最初から相談なんかすんなよ」と思うだろうし、それで会計が割り勘だったら二度とそいつの相談は受けないと誓うだろう。
実際、すでに自分の中で答えが決まっており、それを聞いてほしくて「相談」と称して呼び出してくる奴もいる。
だが中には本当に相談するつもりだったが、相談という高度かつ繊細なことをする能力がないため、相手の意見をダブルラリアットでなぎ倒すことしかできない、悲しきコミュニケーションフランケンも存在するのだ。
ホウレンソウをしない人間は、なんでも1人で決めてやろうとする自分勝手な人間だと思われがちだが、一応そういう人間にも苦悩はあるのだ。
しかし本人よりも、やはりフランケンと仕事をしなければいけない人間の方が大変だと思うので、そこは申し訳ないと思う。
よって、私はこれからも自分のためではなく、他人のためにひきこもる。
私のひきこもりは、自己犠牲のひきこもりなのである。