漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「ピンチ」である。
私の場合「日常」と書いて「ピンチ」と読むし、スターを取るためにしたジャンプでジュゲムに体当たりというチャンスをピンチに変える機転も持っている。
しかし何を「ピンチ」と捉えるかは人それぞれである。
フリーザやセルに遭遇するというのはピンチを超えて、もはや「エンド」だが、そこに「ワクワク」を感じてしまうマゾヒストだっているのだ。
そう思ったが、悟空は果たしてフリーザやセルを前にワクワクしていただろうか。
特に、セル編からは一般人含めて大量の死人が出ている。そんな状況でワクワクしている奴がいたら、まずそいつが人類にとって脅威だ。
そもそも、悟空が自分より圧倒的強さを誇る相手を前にワクワクしていた時がそんなにあっただろうか。
そう思って調べたところ「原作ではそんなにワクワクしていない」ということが判明した。
まだ牧歌的だった少年時代はワクワクしていた感はあるが、青年期になり戦いに命がかかってきたあたりから全然ワクワクしてないし、むしろ俺たちと同レベルで「絶望」を感じている。
ならば何故、悟空は自分より遥かに強い相手を前にするとワクワクのあまり黄金のオーラを纏いながら全身を怒張させる変態、というイメージになってしまっているのか。
答えは「アニメ版では割とワクワクしている」からだそうだ。
確かにまず野沢雅子の声がワクワクしすぎている。
このワクワク声に「ワクワクすっぞ」と言わせないのは、キャバで両脇を大山のぶ代と水田わさびで固めておきながら一度も「僕ドラえもん言ってみ?」とリクエストしないのと同じだ。
だがおそらくドラえもんだって原作ではそんなに「僕ドラえもん」とは言っていない筈だ。
つまり、セルや魔神ブゥを前にワクワクする狂人は悟空ではなく野沢雅子ということである。
それでも何をピンチと思うかは人それぞれであり、自分が何を心の底からピンチと感じるかは「夢」が参考になる気がする。
最近は睡眠の質が向上するというヤクの劣化版乳酸菌飲料を飲み始めたせいか、悪夢の質が上がってしまい、おキャット様に危害が加えられるという「ヤるなら俺をヤれよ!」と号泣しながら目覚めるような、もはや手段を選ばない上に笑いを取るつもりもない、ただ確実に俺の精神を仕留めることを目的としたハイクオリティな悪夢を見るようになってしまった。
だがそれ以前は同じような系統の悪夢を何回も見て、何回も「夢でよかった」的なことを言いながら目覚めていたのである。
この夢が示すのは「同じネタを繰り返し、それが面白いと思い込んでいる」という、あからさまにクリエイターに向いていない精神構造、そして自分がどんな状況を恐れているかという潜在意識である。
私がよく見ていた悪夢のパターンは主に「ブレーキ踏んでもスカスカ」「試験や仕事の待ち合わせに間に合わない」「全裸で外出」である。
つまり、ダイレクトに命の危機に晒されること、期限や約束を破ること、そして全裸で外出することを私は「ピンチ」と思っているということである。
もし全裸で外出する夢を見ても「夢でよかった」ではなく「オラもう少しこのワクワクを楽しんでいたかったぞ!」と言って、寝直す人間は、全裸で外出してしまうことをピンチと思っていないということだ。
また私は「高校を卒業できない夢」を頻繁に見る。現実では「特に何も成し遂げてないが、とりあえず学校に存在した」点を評価され、無事卒業できたのだが、今でもこんな夢を見てうなされるというのは当時相当卒業できないことを恐れていたのだろう。
しかし、事故や遅刻、全裸が周囲に迷惑をかけるのに対し、卒業できないというのは自分自身の問題であり、迷惑をかけるにしても家族までだ。
それを何故そこまで恐れているのかというと、おそらく私は「自分だけが取り残される」という状態をピンチに感じるのだと思う。
停学、留年は当たり前、1年の夏休み明けにはクラスの半数が退学しているし、月一で謎のカンパ箱が回ってくるという真の意味でのフリースクールだったらよかったのだが、私が通っていた高校は割と県内のガリ勉が集う場所だったので、ほとんどの人間が何事もなく卒業していく。
そんな状況で、自分だけ卒業できないという状況は耐え難かったのだろう。
しかし、私はそんな95%が大学進学する学校で、専門学校という進路を選び平気でもあったのだ。
おそらく、人によっては大学進学できないぐらいなら、一留や一浪した方がよいと考える人もいるのだろう。
やはり、何をピンチ、何を恥と考えるかは人それぞれである。
多分「全裸で外出」も全然ピンチではないし、むしろ何かのチャンスと捉えている人もいるだろう。
確かに全裸はチャンスかもしれない。
しかし「逮捕」は誰にとってもピンチだと思うので、人生を狂わすピンチを避けるためには、時に全裸というチャンスを諦めることも必要なのである。