今回のテーマは「祖父との思い出」である。

ババア殿との思い出は割とあるが、ジジイ殿となると話は別だ。ない。なぜなら、母方の祖父は私が生まれる前に彼岸の人となり、父方の祖父も2歳の時に没した。

つまり、私が物心ついた時すでに、「ジジイ」という生き物は絶滅しており、マンモスとかと同じ存在なのである。当然思い出もない。ここで、恐竜の絵を描くように想像上のジジイ殿の話をしてもいいが、多分それは「昨日見た夢」に匹敵するつまらない話だろう。

しかし、私の最古の記憶は、この父方のジジイ殿の葬式なのだ。葬式中、私は母親に抱きかかえられており、そこから棺おけに入っているジジイ殿を見下ろす形だった。もちろん、リアル2歳児なので、死とか全然分かっているし、これ以外のジジイ殿の記憶もない。

しかし、母に「おじいちゃんとお別れをしなさい」と促され、手を振ったのを覚えている。そして、斎場から帰るバス内で、母が泣いているのを見て「何で泣いているの? 」と聞いたことも記憶にある。

何度も言うが、2歳の時だし、それ以降は4歳ぐらいまで何も覚えてない。やはり、2歳児にとっても人の死というのは強烈だったのだろう。だが、この話はそこで終わりだ。何も広がらない。その経験がきっかけで、何かいい方に変われたというのなら、もう2~3人死んでもらう必要がある。それでやっと平均値だ。

母方の祖父については前回紹介した通り、私がうまれる前に鬼籍に入っていた上、20歳まで事故死だったことを知られていなかったジジイ殿である。

なぜ知らなかったかというと、「特に言わなかった」「特に聞かなかった」という、私の家で非常によく起こるあわせ技がそこでも起こっただけ。特に深い意味はないのだろうが、それ以外についても、我が家でジジイ殿の話題が上がることがほぼなかったのである。

もし、ババア殿がジジイ殿との思い出をしみじみ語るなどすれば、私もババア殿から金をひっぱらないといけない孫の身であるから、ジジイ殿の人となりについて、「kwsk」とか「写メとかないの? 」ぐらい聞いたかもしれない。しかし、何も言わないので聞きようもなく、いまだに顔も知らないのである。

ババア殿の昔話と言えば、やはり戦争。そして洋裁屋で働き、人が一週間かかる服を3日で仕上げた。ボロ屋を馬鹿にされた反骨精神で、この家をローンなしで建てたという武勇伝が主だ。

「ババアすげー」と素直に思ったし、今も思っているが、その間、ジジイ殿は何をしていたのであろうか、と思わぬでもなかった。多分、何もしてないわけではなかったと思うが、"ババアストーリー"にジジイ殿が全然出てこないので知りようがないのである。

よって、ジジイ殿が亡くなった時のことも、事故で死んだ以外の情報がいまだに何もないのだが、1回だけババア殿の口からその時の状況というか、感想が語られたのを聞いたことがある。「あの時は驚いた」。以上である。確かに、旦那が車に轢かれたら驚く以外、特にすることはないような気がする。恐らく、そこにも特別なストーリーはなく、普通に車に轢かれたのだろう。

しかし、こんなことを書き草ができるのも、私がうまれる前で現実味がないからである。私の記憶のある時だったら思いは全然違うだろうし、もし今、私の旦那が車に轢かれたらと思うととても「驚いた」ではすまないだろう。

もしかしたら、まだ辛いので言いたくないという可能性もなきしもあらずだが、多分ババア殿の様子を見るに、本当に「特に語るほどのことがない」説の方が有力である。しかし、両ジジイ殿が私が物心つく前に没しているということは、両ババア殿共、旦那が死んでから30年は生きたし、現在進行形で生き続けているのだ。女は旦那が死んでからが本番を体言してしまっている。

ちなみに母方のジジイ殿は、母の証言なので信憑(しんぴょう)性に欠けるが、美男子だったそうだ。「それが自分に遺伝しなかったのは大いなる損失である」と、母が言っていた。母に遺伝しなかったものは、私にももちろん遺伝しなかったようだ。一体どこに行ってしまったのであろう。

思い出はいらないので、それだけは残してほしかった。だったら私も、「祖父は子どもをかばって車に轢かれた」ぐらいのことにはしたと思う。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。