漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「おもてなし」である。

ひきこもりになって少なくとも3年以上。

何せ外に出てないし、他人とも接しないので、どんどん描くものが内省的になり、自らの行動を振り返ることが増えた。

今まで振り返ったことがない、という点に驚愕するかもしれないが、むしろそのせいで現在社会から勇気ある撤退をした生活をしているといえる。

後ろを振り返らない奴というのは、屁をこいた背後に人がいたということにすら気づかず一生「何もしていないのに何故かいつも人に嫌われる」という「何もしてないのにパソコン壊れた爺」のようなことを言いながら孤独に暮らすのである。

何もしていないのに人間関係が上手くいかないし、コロナ前から自分の周囲だけ全員マスクをかけていたなどの理不尽も当然ある。しかし人に嫌われるときは何かしており、それに自分が気づけていないだけというケースも多いのだ。

そこに気づけないと何も悪いことをしていないのに自分だけ不当な扱いを受けている、畜生俺はいつもこうだ、誰も俺を愛さない、という自らの不遇を嘆きながら生きることになってしまう。

そこで自分の行動を今一度振り返ることにより「これは嫌われて当然だ」ということがわかり、不当ではなく正当な評価をされた上でこんな有様になっていると「納得」することができるのだ。

同じ有様でも、納得がいっていないのといっているのでは気分の晴れやかさが違うので、己を振り返るというのは自分のためにも必要である。

私は、私が周囲に馴染めないのは、人見知りで喋るのが苦手だから、という大きな勘違いを長年していたのだが、最近そうではないとやっとわかってきた。

私だけではなく、コミュ症というのは大体「他人に興味がない」場合が多いのだが、ここでいう他人への興味というのは、どんなパジャマを着ているとか、風呂入ったときどこから洗う、などに対する興味ではない。

むしろそのような興味は持った方が嫌われやすい。

コミュ症の他人への興味のなさ、というのは「他人の感情」に興味がないのだ。

つまり「初対面でパジャマの種類を聞いたら相手は嫌がるかもしれない」という発想がない、もしくはあっても自分の「こいつのパジャマの種類を知りたい心」の方を優先させるのである。

つまり相手の心をおもてなしするつもりがないのである。

よって、そのようなタイプと一緒にいると、自分がいつももてなす側に回らなければならず「何様だ」ということになってしまうのだ。

私が毎日、家から出ずに誰とも会わないのは、他人と一緒にいると疲れるからである。

もちろん私に他人に気を使う、などという高度なことができるわけがないのだが、それでも他人と会うときは、風呂に入り、服を着て、場合によっては化粧などというM:Iに挑まなければいけないのである。

つまり他人のために服を着るより、自分のためにパンイチでいる方を選ぶから一人なのだ。

何らかの集団に所属しようと思ったら、他人のための面倒は避けられないしそこを全力で避けようとする人間はそこから追放されても仕方がないのである。

ただコミュ症は、自分の感情優先が当たり前になっているため、追放されても理由がわからず「何もしていない何故かいつもこうなる」という感想になる。

むしろ他人の心のために何もしていないからそうなっているのだ。

しかし、世の中には良かれと思ってポリス、もしくは労基や人事沙汰ということもある。 他人をもてなす心はあっても、他人が求めるおもてなしと、自分が考えた最強のおもてなしがあまりにも違いすぎて追放というケースもある。

「我々の部族では客人のアイフォンを奪いとって肥溜めに投げ入れるのが最高のおもてなしなのです」と言われても、それを嬉しいとは思えないだろう。

世にあるハラスメントも、最初から相手に嫌がらせをしてやるつもりで行っているなら見事計画通りであるが、する側が「相手は喜んでいる」と勘違いしているケースもかなり多いのだ。

つまり相手の気持ちや空気を読む才能がない人間がおもてなしをしようとすると、良かれと思って相手のアイフォンが肥溜めにダンクしてしまうのである。

よってそういういらんことをするぐらいなら何もしない方がマシなのだが、やはり集団の中で何もしない奴、というのは長くは生きられない。

結局そういう人間は最初から集団の中にいないのが最善ということになってしまう。

つまり私が外に出ず誰とも会わないのは、自分のためではなく、外にいる人間のためなのである。

これが私にできる唯一のおもてなしだ、ぜひ私がいない間に物事を円滑に勧めてほしい。