漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「暇つぶし」だ。
ありがたいことに漫画家としてデビューして以来、物理的に暇ということは1日たりともないのだが、精神的には常に暇であり、何だったらメールの返信を3件無視している今ですら暇である。
暇の反対は忙(ボウ)ではなく充(326)なのである。
もし、裏に夢を描いたテストで作った紙飛行機を飛ばしている奴を見かけたら「他にやることねえのか」と思うだろうし、さらにその紙飛行機に「メーヴェ」と名付けていると知ったらバイトの一つでも紹介してやろうか、と思うだろう。
しかし、テストの裏に描く「夢」がある時点で彼は暇というわけではなく、むしろ「やることないならバイトでもすれば?」と言う奴の方が忙と充を錯覚しており、毎日忙しいのに心は空芯菜という人生を送りがちなのだ。
ちなみに充(326)談によると、あの曲は大ヒットしたが自分たちの懐にはそんなに入らなかったらしい。
夢も大事だが、世の中にはテストの裏に夢を描く若者たちから搾取しようとする、もう金でしか充を感じることができない空芯菜野郎が結構いる、ということも覚えておかなければならない。
つまり、やるべきことがどれだけあっても、その中にやりたいことがなければ「暇」と感じるのである。
では、やるべきことはなく、やりたいことだけがあり、それをやっている状態が充かと言うとそうでもなかったりする。
攻めというのは受けがいるからこそ成り立つ概念であり、受けによって光り輝く存在である。
もし受けがいなければ攻めは「なんか意味もなく横暴な人」として全く魅力的に見えないのだ。
それと同じように、やりたいことも、やるべきことや、やりたくないことがあってこそ真価を発揮しているのである。
今返信しなければいけないメールを3件無視した状態で何故かこの原稿を書き、さらにそれを途中でシカトしてウマ娘を30分ほどプレイしてきたが死ぬほど楽しい、楽しすぎて本当に社会的に死んでしまいそうだ。
もしこれが、仕事も家事も一切なく、一日中ウマ娘をしていい、むしろそれしかやることがないとなったらさほど楽しく感じないどころか逆に空虚になってしまう可能性すらある。
やりたいことというのは「今こんなことしている場合じゃねえ」という背徳や「このライブが終わったらまた仕事だ」「明日月曜」などの精神的負荷があるから余計やりたくなるのである。
むしろそれがなければ「やりたい」と感じるかどうかさえ怪しい。
さきほど金でしか充を感じられない、中身スカスカの精神的骨粗鬆野郎とは言ったが、実は金も充のためには不可欠な要素である。
そもそもやりたいことを断念する理由のぶっちぎり第1位は金なのである。
19歳の時は金はなくても夢を描いた紙飛行機を飛ばすというエモさだけで満足できるかもしれないが、30超えてそれは自分も厳しいが、見ている方も厳しい。
さらに周りには金の力で「メーヴェと名付けた自家用ジェットを持つ」というやりたいことを実現させた奴が既にいたりするのだ。
つまり、やりたいことがなくても銀行口座に残高さえあれば「いつかやりたいことができたらこれで実現させよう」とニヤニヤしながら美味い酒を飲むぐらいはできるのだ。
よって「金だけあっても虚しいだけ」というのは大体金を持ってない人間の主張である。
たとえ金がありあまりすぎて金を使って自分でできることは全てやり尽くしたという人でもまだ「金を持ってない奴に鉄骨渡りをさせて爆笑」という楽しみが残っている。
あの場にいる金持ちたちの充実ぶりときたら半端ないので、やはり充実と金には大きな関係があると認めざるを得ない。
しかし、金だけあっても、それをどう楽しく使ってやろうかという「発想力」がなければ「金があっても虚しいだけ」という状態に陥ってしまうだろう。
昔の成金が金に火をつけて「どうだ明るいだろう」とご満悦なのも「靴探す時、金に火をつけて灯りにしたらメッチャ楽しいんちゃうか」という発想力があったからである。
つまり「テストの裏に夢を描いた紙飛行機を飛ばす力」も充実を得るためには必要ということだ。
このように、やるべきこと、やりたくないこと、金はお互いに作用し合っているわけだが、これを全て悪い方向に持っていったのが「やりがい搾取」である。
これは忙と充を錯覚させた上に充があるなら金はいらないはずだと、忙と充そして金を全て混同させてしまっているのである。
攻めと受けは切っても切れない間柄だが、それでも各々人格を持った個人である。
それと同じように、忙と充と金は関係はあるが所詮他人ということを忘れてはならない。