漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「影響を受けた人」である。
影響を受けるというのは何かを「クソ渋い」と感じ、その模倣をすることである。
世の中高生が邪気眼に目覚めたり、難解な漢字とあまり使わないカタカナを織り交ぜた怪文書を書き始めたりするのも、彼ら彼女らのオリジナルというわけではなく、邪気眼に目覚めたカッコいい漫画のキャラや、クールな怪文書を書くアーティストに影響を受けてのことである。
つまり何かの影響を受けた過去というのは黒歴史とバリューセットになりがちなので「影響を受けた人はいますか?」と質問をされても「別に」とエリカ様の影響を受けた返答しかしない人もいる。
さらに「誰かのマネ」はダサいことという意識もあるため、俺は何も手本にはせずオリジナルのものを作りたいと思っている人も多い。
しかし「模倣しない=カッコいい」というのは大きな間違いである。
何故なら現在、服を着ているのも、日本語をしゃべっているのも、全て先人の模倣だからである。
それをダサいからマネしたくない、と言ったら、全裸だがくるぶしだけに絆創膏を貼っているという、オリジナルの法律や羞恥に基づいたファッションで「カンノムシ語」などの自分以外誰も使ってない言語で周囲とコミュニケーションを取るしかなくなってしまう。
その姿がカッコいいのかというと、少なくとも周囲からはあまりそう思われていない気がする。
そもそも人間というのは生物の中で群を抜いて「教えられてないことはわからない」生き物なのである。
他の動物は教えられなくてもある程度のことを本能でできるようになるのだが、人間は教えられなければ繁殖方法すらわからず絶滅しかねない勢いなのだ。
よって、最初はアホのように、親や周囲の「マネ」をすることでしか、人間は成長をすることができないのである。
つまり人間界で良しとされる「オリジナル」というのは、まず模倣で「基本」を習得し、その上に独自のカラーを乗せていくことである。
漫画の世界も同様であり、絵が上手い人というのは誰にも教えられず、何の見本も見ずに上手く描ける人と思っているかもしれないが、そんなことはない。
何故ならどれだけ天才的に絵が上手い人でもいきなり「大川正蔵(78)の似顔絵を何も見ずに描け」と言われても描けないのである。
天才とは、同じ正蔵初見勢10人に正蔵の絵を描かせたとき、群を抜いて上手く、さらに1回描いただけで完全に正蔵をマスターし、最終的に「これ本物の正蔵より、正蔵じゃね?」というものを描ける人であり、どちらにしても絶対1回は本物の正蔵を「模倣」して描く必要があるのだ。
それがなければどんな天才でも、正蔵を完成させることは不可能なのである。
むしろ良いオリジナル作品が描きたければ模倣から始めた方が良く、それをしないと永遠に矯正不可能なただの手癖がつくだけになったりする。
何も模倣せずに優れたオリジナルを作り出せるというのは、もはや天才を越えて神レベルなのである。
よってこの世に「○○の影響を受けた作品」があるのは当然なのだが、それが「パクリ」と言われてしまう場合もある。
もちろん、設定の完コピやトレースなどは良くないが「この人小中学生のとき、遊戯王の模写してたんだろうな」という絵柄の人をパクりというのはちょっと待ってほしい。
「自分が良いと思ったものを素直に取り入れる」という行為を「パクり」や「ズル」と言ってやめさせてしまったら、みんな「模倣」という土台を形成せずに「俺が考えた最強のタワマン」を建てなければいけなくなり、文化という名の街が崩壊する恐れがある。
よって若い人が、何かの影響が透けて見えるものを作っていたら、それはオリジナルを作るための土台作りの段階と思って見守ることも大事である。
私も小中学生時、往年のジャンプ作家や、名だたるイラストレーターの絵をマネしたものである。
しかしそれらの魅力を全く取り入れられなかったため、結果として他の作家の影響があまり見られない絵になってしまったが、それがオリジナリティがあって良いものか、というと全然良くないのである。
つまり「影響を受けることができる」「模倣ができる」というのも才能なのである。
絵だけではなく「社会性がある人の行動の模倣」さえできれば、今こんなことにはなっていないのだ。
「個性」や「オリジナリティ」ばかりが評価されやすい世の中だが、そのせいで個性の才能がない人が個性を出そうとして黒歴史を量産したり、最悪「変人」扱いされたりしてしまうのだ。
それよりも「普通の人がやることを素直にちゃんとマネできる」という才能もちゃんと評価すべきだろう。