漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
荒廃した土地のことを、北斗の拳やマッドマックス、総称して核戦争後の世界、文明が滅んだ世界などと呼んだりするが、正直、キレイ、汚いで言ったらおそらくそういう世界は「キレイ寄り」なのではないかと思う。
やはり真の醜さというのは豊かさの中にある。
現在私の机にM&Mの空袋と空のペットボトル、そして粉じん爆発で自害予定なのかというぐらい黄色い粉が舞ってしまっているのは、全て文明が生まれた結果である。
ちなみに黄色い粉とは、それこそ文明の集大成ことパブロソだ。
それらの残骸を「ちょっと詰めてもらっていいすか?」と搔き分けて、0.5人分ぐらいのスペースに無理やり座っている姿はテーマ「汚」の前衛芸術と言って良い。
逆に、私が何もない荒野に体育座りしていても「荒」や「終」とは思っても「汚」とはあまり思わないのではないか、思ったとしても12番目ぐらいであり、帰れま10だと圏外である。
このように、私は日々栄えることの虚しさを自分を使ったアートとして表現し続けているのだが、アートというのは一般にはなかなか理解されない、そして「家族には蛇蝎のように嫌われる」という特徴がある。
「あなたのお父さんは偉大な芸術家でした」と言っても家族にとっては「突然深夜に伊豆に行くと言い出し、部屋を謎の木彫りで占拠する、何より便所すら流さない生活力社会性皆無の一刻も早く身罷ってほしいクソジジイ」であり、どれだけ偉大だったか語れば語るほど「外面が随分よろしかったんどすな」と遺族の顔が塩になっていく。
私の芸術も家族には理解しがたいものであり、家人には呆れられているのだが「あなたの部屋だけなら良い」とも言われているので、自らを家庭内セルフ村八分にすることにより何とか平穏を保っている。
よって、私の家は私のアトリエ以外は割とキレイなのである。
そんな我が家を見て思うことは「私の父は偉大な芸術家だった」ということである、ちなみにまだ生きている。
私が「芸術はお前の部屋だけにしろ」と言うのを諾々と守っているのに対し、父はお構いなしに自らのアトリエを広げていった。
基本的に「アート」と「生活」というのは食い合わせが悪いため、父の芸術が円熟していくにつれ他の家族の居住空間がなくなっていた。
その結果、私と夫は結婚して10年以上経つが、夫は私の実家の「応接間」以外には入ったことがない。
何故なら他の部屋には全て、父の芸術作品がところ狭しと置かれており、物理的に入れないというのもあるが、アートを解さない夫には少々難易度が高い感じになっているからだ。
それに比べれば、私のアートなどまだまだである。
つまり私と父は、葛飾北斎と娘応為みたいな関係なのだ。
彼らも芸術家としては偉大な親子だが、多分近隣からはあまり関わりたくない家と思われていただろうし、特に親族からは嫌われていたと思う。
このように、私と父は、生活力、社会性のなさがクローンレベルで似ており、いつ私も家全体を芸術の森にしてしまうか、わらないのである。
そう言った意味では「血の暴走に怯える」という中二垂涎の状態なのだ。
しかし、何から何まで同じというわけではなく、父とは違う部分もある。
まず、興味のあることしややりたがらないところはそっくりだが、父はコーラス部に入ったりと、好きなことに関しては社交的なのだ。それに対し私はピクシブの単独行しかしない。
つまり、父を良くも悪くも劣化させたのが私だ。
そして、決定的に違うのは「記録」に関することである。
そんなわけで今回のテーマは「写真」だ。
芸術家と言っても「画家」とか「彫刻家」とか、表現方法は千差万別である。
私も父も「汚部屋家」という点は一致しているのだが、画家でも絵具を使う人もいればク―ピ―を使う人もおり、中には自分の血を使うという、もう新しくもなんともないことをしている人もいる。
それと同じように、私と父とでは画材が違い、私は主に、何かを使用したあとの「ゴミ」を使って作品を使っているが、父は私よりさらにひきこもりでコンビニにすらいかず、通販とかもしないのでゴミはあまり発生させないのである。
では何を素材に作品を作っているかというと、カセットテープ、ビデオテープなどの「記録物」なのだ。
父は記録魔であり、その点は私と大きく異なっている。父は何でも記録し、さらに上書きなどしないため、記録媒体がどんどん増えていくのだ。
カセットテープやビデオテープも、積み重なれば、家一つ潰すのである。もちろん、それらはただテープを積み重ねているだけではなく、ちゃんと何か父にとって大事な物が記録されているのだ。
そういう意味では、ただゴミを積み重ねているだけの私とは芸術レベルが違う。
もちろん「写真」も大好きであり、未だに実家に帰ると必ず家族の集合写真を撮る。
その写真は私にも渡されるのだが残念なことに私は「記録」に全く興味がなく、写真をもらっても、それをアルバムに保存するなどという高度なことができない。
よって、貰った写真はカバンに入れっぱなしであり、現在私のカバンには計10枚ぐらいの家族写真が入っている。
もし私がどこかで倒れて、カバンの中を改められたら「何て家族が大好きな奴なんだ」と思われるだろう。