漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「上半期買ってよかったもの」である。
すでに1年が半分終わっている上、いつの間にか7月も半分以上終わっているという、嫌な事実しか思い出さないテーマだ。
確かにこの時期になると同テーマで自分のセンスの良さを誇示したり、逆に買って失敗したものを晒し己のトンマぶりで笑いを取ったりと、ツイッターがいつになく「買った物ではなく俺を見ろ」になるのだが、このタグに参加できるというのはとても良いことだと思う。
もちろん私はこの話題への参加資格がない。
だからと言って何も買っていないわけではない。残高の減りからするとラブドール2,3体ぐらいは買っているはずなのである。
しかし今私の横に、遥やカナ、モンローは寝ていない。代わりに45リットルの袋に詰められた65リットル分のゴミがあるだけだ。
つまり、これが私の買った物である。
むしろゴミという物理で残っているのはまだマシな方かもしれない。
ちなみにスマホの中に入っているイケメンや馬JPEGは物理でないが私にとっては大きな価値がある。
私が1番金を使うものと言ったら、お菓子、パスタ、パスタソース、白い粉、黄色い粉、なのだ。
つまり全部最終的に便所に流れていくものである。
だだその上に「税金」がいるのだが、毎年不動の絶対王者過ぎて試合が面白くないので「殿堂入り」とさせていただいた。
どこへ行ったのかさえ不明な税金に比べれば、「便所に流れた」とわかっているだけ食い物はまだマシといえる。
ただ、小じゃれたインテリアも未来のウンコも「楽しむために買った」という点は同じなので大差ないように思えるかもしれないが、実は根本的に違うのである。
インテリアや便利グッズなどは「これからの生活を良くしたい」、時には「これさえ買えば俺の人生変わるかも」レベルの「未来への希望」が購入動機になっている場合が多い。 対して、食べ物や何らかの粉は「今この瞬間美味ければいい、もしくはちょっとボンヤリしたいい気分になれば良い」という極めて刹那的動機によるものなのだ。
未来への希望が購買動機になっているものは、購入する時の期待感、届く前のワクワク感、届いた時の喜び、それがある生活など、かなり幸せが長続きしやすくなっている。
もちろん最終的に使わなくなり部屋のスペースを奪うだけの巨大な文鎮になることも多いが、それも「#上半期失敗したもの」タグでまた使えるのでコスパがいい。
対して食べ物というのは、食べれば終わりな上、牛のように優れた身体構造を持っていないため、吐いて「もう1回食べれるドン!」というわけにもいかない。
さらに「食った、美味かった!」で終われば良いのに「何故俺は深夜2時にうまかっちゃんを…」と食い終わった瞬間にもう後悔をはじめていたりするのだ。
さらに何をするにも「後片付け」というのは面倒なものである。
食べ物は食べたら消えるが、最初から最後まで「剥き身」な食べ物というのは少ない。
食べ終わると、それを包んでいた包装や、食器、仮に手づかみで食っていたとしても手は洗わなければいけない。
几帳面な人であればちゃんと後片付けをするだろうが、物を食い終わったあと、というのは割と賢者モードになっており、何もしたくないため、それらを放置してしまったりするのだ。
すると部屋はどんどん汚れるし、起き抜けに昨日食ったうまかっちゃんの汁が入ったままの丼が床に放置されているのを見るとテンションが下がる。
つまり刹那的動機でモノを買うと、幸せが長続きしない上に、直後ブルーになり、さらに部屋が汚くなるため、QOLがさらに下がり、どんどんメンがヘラってくる。
だが、そう言った刹那的動機でしか物を買わない人間は、その時点でかなりメンの調子が悪いといってもいい。
そういうタイプは、どれだけ「あなたの暮らしをステキにしますよ」という物を見ても、外国人四コマの1コマ目のように心が着席したままになっているのだ。
これは、どんな美女が雌ヒョウのポーズでこちらを誘っていても「我が心と下半身は不動」という状態に等しい、つまり人間的に不健康なのだ。
そういう物を見ても「どうせ何も変わらない」「雌ヒョウが見ているのは俺じゃなくて俺の後ろの奴」と、未来や自分に対して希望や期待を抱かなくなっているというのは、逆に言えば「絶望している」ということだ。
だから未来の不確かな希望より「口に入れてる間は美味い」という一瞬で消えるとわかっていても確かな喜びのほうに金を使ってしまうのである。
今年も使いもしない、ダイエット用品や音叉を買って後悔している人がいるかもしれないが、それは人間として健全な行動である。
これからもその調子で、健やかに経済を回していってほしい。