漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「水族館」である。
私に外出系のテーマを出す時は平気で「10年前の話」を出して来ることを覚悟してほしい。
最後に水族館に行ったのはいつだったかさえ思い出せないのだが、確かうちの玄関に飾ってある、ジャックフロストが活躍していた時代のプリクラでももう少し解像度が高いだろうという記念写真は、新婚旅行でハワイに行った時に立ち寄った、恐ろしくしょぼい水族館で撮影したもののような気がする。
ハワイと言えば他に見るべきものは100億個ぐらいあるはずなのに、何故そんなところに行ってしまったのか。
しかし、私は我が地元にある「くじらの乳首のホルマリン漬け」が主役の「くじら資料館」を体験してきた、面構えが違う人間なので、生きている海洋生物がいる時点でがっかりしたりはしないのだ。
つまり、最後に水族館に行ったのは本当に10年以上前なのだ。
そもそも私は外出が嫌いだが、さらに「鑑賞」が苦手である。
映画など、まだエンタメみがあるものなら良いが「桜を見に行こう」などと言われたら「見た後食っていい」などの条件つきでなければ即却下である。
基本的に「じっと何かを見たり聞いたりするのが苦手」であり、取材なども気が付いたら、ボールペンでひたすら己の手の甲を指し続ける異常者になってしまっているのだ。
逆に言うと絶えず同時に手を動かし続けることができれば「鑑賞」もできなくはない、ということだ。
ぜひ桜の木の下にずっとスクラッチし続けられるターンテーブルなどを設置してほしい。 ただ、映画もずっと食い終わったポップコーン容器の底をタブラのように叩き続けなければ鑑賞できないというわけではない。
映画は面白ければ集中できるし、つまらなくてもカラ容器を股に挟むぐらいで抑えることはできる。
つまり、対象が興味深ければ鑑賞もできなくはないのだ。
よって「水族館」などの生物鑑賞はまだ不可能ではない。
基本的に私はキレイなだけのものには興味がない。よって夜景やイルミネーションを見に行こう、と言われたら周りにテキ屋が並んでいなければ断る。
しかし、夜になると無数のグラブラー達の魂が光り輝く古戦場跡を見に行く、と言われたら瞬時に「同行しよう」と花京院顔になる。
つまり、キレイなだけのものより、少しおぞましさがあったり、背景に面白い設定があったりするものを見るのが好きなのだ。
その点、生物というのは文字通り生々しく、まだつきあってないカップルの前でも平気で交尾をしだす筋書のなさが良い。
またカワイイだけではなく、正直キモカワイイからカワイイを抜いてキモを足したような生き物もいるので、見ていて飽きがない。
そう言った意味では「水族館」はおぞましポイントが高くてなお良いのだ。
まず、基本的に人間は水中では生きられない。巨大な水槽に囲まれている水族館というのは、己の命を奪うものに包囲されているのと同じなのでその時点で怖い。
さらに、その中に大小含めて魚類の大群が泳いでいるのだ。「今この中にぶち込まれたらどうなるのだろう」という想像が捗る。
そして水族館の生き物の管理というのは動物園とかよりファジーにならざるを得ないのか、たまに死んでいる魚がいるのもポイントが高い。
あと基本的にみんな目が笑ってないし、瞬きもしないので、何を考えているのかさっぱりわからない。
たまにカラフルな魚もいるが、せいぜい髪を紫に染めるしかできないであろう自分にとって、全身その色にしてしまうカラーリングセンスが不気味すぎる。
このように、水族館の生き物には得体の知れない怖さがあって没入感が高い。だがイルカやアシカなど海獣になってくるとカワイイ要素の方が勝ってくる。
しかし、イルカやシャチを至近距離で見られる小窓から見ると、彼らは「意外と全身傷だらけ」なのだ。人間だったら、さぞ名の通った任俠である。
おそらく泳いでいる間にぶつけたりこすったりしてそうなるのだろうが、それを全然気にしていない様子である。
足の小指をタンスにぶつけただけで悶絶する人間からすればやはり得体が知れない。
くじらの乳首しか置けないような県に、イルカやシャチを飼える場所があるのか、と言うと、くじら資料館とは別に、我が県には、珍しく割と大きな水族館が存在する。
しかし、私の自宅からは車で1時間半ぐらいかかるのだ。
いくら水族館が割と好きとはいえ、私がそんな時間をかけてわざわざ魚類を見に行くとは思えない。
ならば何故行った記憶があるのか思い返してみると、その水族館の近くで本物の死体を使った「人体標本展」をやっていたので、それを見に行くついでに水族館にも寄ったのだった。
このように、気持ち悪いものを見るためなら、割と時間も労力も惜しまないのだ。
コロナが終息したら、また何か気持ち悪いものを見に行きたいと思う。