漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「ご自愛消費」である。
である、と言ったが初めて聞く言葉だ、しかし何となく意味はわかる。
愛人契約が、魂をそのままに、援助交際やパパ活、頂き女子など、システムと呼び名をマイナーチェンジしながら脈々と受け継がれてきたのと同じだ。
ご自愛消費というのは、ひと昔でいえば「自分にご褒美」、自分で自分を労うための出費である。
自分にご褒美、という言葉が出た時は私もケツがサバンナモンキーのキンタマみたいな色をしていたため「敵将も討ち取ってない奴が自分に褒美とかしゃらくせえ」と思っていたが、手柄を立てていようがいまいが自腹を切っている人に文句を言う筋合いなどなかった。
他人からのご褒美を求める奴より5兆倍無害な存在である。
「ご自愛消費」という言葉が頻繁に使われるようになったのはどうやらコロナの影響のようだ。
現在、緊急事態宣言が解かれはしたが、引き続き外出などは控えろと要請しながら、外では聖火ランナーが走っているという、ある意味モヒカンジープが走っているより世紀末な状態になっている。
この世界観にはラオウも「うぬら正気か?」とビビったんじゃないかと思う。
今でこそこんなピーキーな世の中になってしまっているが、約1年前はみんなもっと厳戒態勢であり、みんな本気で外出自粛をしていた。
その結果、コロナへの不安に加え、外での娯楽と人との交流がなくなって、病んでしまう人が続出した。
だが何せ外には出れないし、他人にもおいそれ会えない、よって自分を癒すのは自分しかいねえということで、活性化したのが「ご自愛消費」である。
意味としては自分にご褒美と変わりないが、コロナの影響で「ご自愛」という言葉の方がしっくりくるようになったのだろう。
しかしコロナ関係なく「ご自愛」の仕方はマスターしておいた方がいい。
何故なら大人は自分で自分の機嫌がとれなければいけないからだ。
「不機嫌」というのは自分も嫌だが、周囲も嫌なものである。
「今おむずがりやから、誰か俺に高い高いせえ、もしくは反町隆史のPOISONを聞かせろ」という態度を取って良いのは乳幼児までだ。
ちなみにPOISONを聞かせると赤ん坊が泣きやむという噂は本当にある。
よって不機嫌は漏らさぬよう我慢しなければいけないが、我慢も体に毒だ。よって早急に自分で自分の機嫌を取らなければいけない。
癒しも同様であり、タダで他人に求めて良い物ではない。「ショートタイム4000円」など何らか対価を支払わなければいけないし、無償でそれを求めていたら周りから人がいなくなる。
それに、他人の手を借りないと、心を癒せないし機嫌も治せないというのは非常に危険である。コロナ自粛で真っ先に病んだのはそういうタイプだと思う。
他人との交流も大事だが「いざとなったら右手にマニキュア塗って1人で励めばなんとかなる」というように「左手に軍手はめてセルフ頭ポンポンすれば超回復」みたいなご自愛方法を編み出しておくべきである。
よって「自分にご褒美と言えば?」と聞かれたら「ビールとマリファナがあればハッピーですよ!」と言って即連行されるぐらいであってほしい。
答えに窮する人は自分にストイックすぎる、ご自愛が足りない。
正直ご自愛消費は毎日あってもよい。
人間はゴールや区切りがないと絶望してしまう。
だから「定時」という概念があるはずだが、何故かそれを破壊してしまったりもする。
それでも「18時になったら帰れるはずだ」と思えば、狂を発するのは明日でもいいかという気になれるし「帰ったら生ハムの原木が待っている」などのゴールの先に賞品があればモアベターである。
これを毎日続ければ、一生狂を発さない計算になる。
もちろん、右足が沈む前に左足を出せば沈まないというのと同じ程度の理屈だが何もないよりはマシだろう。
私の毎日のご自愛と言えば、専ら夕飯である。
私は365日中300日以上夕飯はレトルトソースのパスタだが、これは節約や下積みや修行、まして罰ゲームではなく、本気で私にとってはご褒美なのだ。
たまに夫が早く帰ってくると、一緒に同じものを食わなければいけなくなるため「今日はノーご褒美デ―か」となってしまう。
正直いうと、夫と同じ夕飯を食べるほうがコストはかかっている。
このように、金をかけずともご自愛はできる。
女が出ていくという、なかなか痛いことがあっても、バーボンと派手なレコードによるワンマンショーで乗り切ってしまうジュリー精神を見習って、皆さまも他人にただでPOISONを求めないようご自愛いただければと思う、