漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今、世の中は某フォレスト会長の失言に揺れている。

もちろんツイッターも「ツイッターを1日68時間50年見続けたワシでもこんな火を見たのははじめてじゃ」とツイッター村の長老が念仏を唱えるレベルで燃えている。

発言内容については「個人がそう思っちゃっている」という点はもう変えようがない気もする。

人の心から差別や偏見を完全になくすのはおそらく無理だ。

人間は判断の8割を視覚に頼っているらしい。

つまり最初は無意識のうちに相手の見た目、つまり、性別、年齢、容姿などで判断してしまっているということだ。

前歯が総金歯で「エフ、ユー、シー、ケー」という意味深な刻印をしている方を「秒で信頼しろ」と言われても無理だし、カゴに「牛肉、ニンジン、じゃがいも」が入っている奴に「今日はこいつカレーだな」という偏見を抱かずにいるのはむずかしい。

さらに、そのラインナップの中に「ちくわ」が入っていたら「カレーにちくわは入れへんやろ」と、自分の常識で他人の行動を批判してしまうこともある。

反射的にそう思ってしまうのはもはやどうしようもない。

問題は「これを口に出して言ったらまずい」ということに気づいて、言わないでおけるか、という点である。

それに気づけない上に、公の場で言ってしまう人を国の代表に据えているというのはやはり問題なのではないかと思う。

ともかく「女性」や「男性」という巨大主語、特に性別でくくって物事を語るというのは「男性はキソタマがついていがちなところがある」など、よほど確信をもって主張できること以外はやめたほうがいい。

それを考えると、「女子力」という言葉が流行り、普通に使われていたのがつい最近というのが、不思議にすら思える。

ただし、老が戦後のことを全て「最近」というように、中年の言う最近も平気で昭和の恐れがあるため、一応調べたところ「女子力」が流行語大賞にノミネートされたのは平成22年なので、割と最近と言えなくもない。

「女子力」というのは明確な定義があるわけではなく、料理などの家事能力や、周囲に気遣いが出来ることを指す場合が多い。

容姿がフェミニンだったり、男を手玉に取る能力に長けていることを言うケースもあるが、料理ができる男を「女子力高いねー」と揶揄うことはあっても、レースとリボンをふんだんにあしらった衣装で登場した男に同じ言葉をかけることはあまりない気がするし、男の人心掌握術にたけているという意味なら、ゴールデンカムイの鶴見中尉などはかなり女子力が高い。

家事能力や気配りが出来ることを「女子力」と呼ぶのは、言外に女は家事や気配りができるのが普通で、できなければ女失格と言っているようなものなので、今この言葉を使ったら差別的として炎上してもおかしくはない。

しかし、男子女子関係なく「人間として」気配りはできるにこしたことはない。

そういう意味で私は「人間力」が低いし「人間失格」と言われても反論できないところがある。

「気配り」というのは、周りに媚びを売ったり、まして両隣の女にダブルラリアットをかましたあと、いち早くサラダを取り分けるたりすることではなく、どれだけ他人に関心を持ち、相手の気持ちを考えられるか、つまりは思いやりである。

他人に関心がなければ、隣の席の人間の頭に矢が刺さっていることにも気づかず「救急車を呼んであげる」などの思いやりのある行動をとることはできない。

また、自分がすべき以上のことができる、というのも「気配り」だと思う。

そんなわけで今回のテーマは「プレゼント」だ。

仕事であれば給料以上のことをする必要はないのだが、人間関係においては必ずしもそれが正しいというわけではない。

パートナーが風邪で寝込んでいるが、洗濯は相手の仕事と決まっているのだから自分は絶対やらないというのは破綻の原因である。

他人のためにちょっとでも「義務以上のことをする」というのはやらない人間は全くやらないため、人として大きな差がつく。

私はこれができないし、時には義務すら危ういのだが、これは「プレゼント」にも表れている。

私も誕生日には夫にプレゼントをあげるし、去年は数万円する、耳より高いのではないかというイヤホンをプレゼントした。

しかし、これは「誕生日にはプレゼントをあげる」のがほぼ義務だからであり、それ以外で夫に物を与えることはほぼない。

一方夫はマック(関東圏略称)などに行った時、私にも三角チョコパイを買って来たりするのだ。

もちろん私に「三パ(略称)勝手来いよ、三分以内ダッシュな」と言われたわけではなく、自主的に買ってくるのである。

つまり、己が食うBL(ベーコンレタス)バーガーを前にして、「脂と糖分に目がおまへん」という私の顔が思い浮かんでいるということである。

片や私は、コンビニに行って、甘いパンを前に、夫のことを思い出すということはまずないし、そのまま自分が食う甘いパンだけを両手に抱えて(エコバック忘れた)帰ってしまう。

これは大きな差である。

つまり、どれだけ己の行動の中に、他人のフェイスを思い浮かべられるかが、気配りであり、思いやり、なのだと思う。

そう言う意味では私の心は常に自分のツラしかないという「自分の顔ファン」としか言えない状態なのだが、先日、少しは夫を見習い、自分の甘いパンを買いにコンビニに行った時、夫用のビールも買って帰った。

すると夫は「これは飲んで良いものなのか?」と尋ねてきた。

自分がすべきこと以上をする義務はない。

だが、そればかりだと「暗殺」など、他に目的がなければ他人のために動いたり、物をあげることがない奴、と思われてしまい、その内誰も自分に何も与えなくなる。

つまり、暗殺したい相手がいる場合は、平素から頼まれてもないのに好物を買い与え、信頼を勝ち取っておかなければいけない、ということだ、