漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「手(て)芸」である。
私は「1日68時間」という、もはや呼吸よりも長い時間ツイッターをやっていることでおなじみだ。
「ツイッターというのはガンジス川である」とガンジー以外の誰かが言っている通り、ツイッターには聖なる川という一面がある一方で水質的には完全にウンコ水であり、クソはもちろん死体まで連日の如く目の前を横切っていく。
しかし「聖なる川」というのも嘘ではない。
まず「おキャット様」の写真が流れてくる。
猫を飼っていない奴がおキャット様と触れ合おうと思ったら、外という煉獄に出てフリーのおキャット様に出会うという僥倖を待つか、金を払ってプロのおキャット様にお相手いただくか、自分にしか見えないおキャット様を虚空に創り出すかしかないのだ。
どちらにしても精神に強い負担がかかるため、ネットで電子化されたおキャット様の偶像を崇拝するという活動に留めているのだが、ツイッターというのは検索窓に「猫」と入力しなくても、おキャット様の写真や動画が流れてくる上、ツイッターに流れてくるおキャット様画像というのはそれを撮影した奴隷が「これを世界に発信しないのは大きな文化的喪失であり、山が焼け、川が干上がり、村から子どもが消えてしまう」という動機でツイッターにあげているため、極端に可愛いか、その時歴史が動いたと言わんばかりの決定的瞬間だったりするのである。
もちろんおキャット様の写真というのはまんぐり返し状態で撮影してもかわいくないなどということはあり得ないのだが、ツイッターにわざわざ投稿されたおキャット様というのは特に神々しい。
普通だったら、そんなお姿を拝むためには、天竺を目指すぐらいの長い旅が必要なはずだし、魔物とも戦わないといけないはずだ。
それが、何もしてないのに、目の前に流れて来る、というのは「神が与えた奇跡」としか言いようがない。
このように、ツイッターの聖なる部分の2兆割はおキャット様が担っているのだが、残りは「クリエイティビティの発露の場」になっている点なのではないかと思う。
つまり、絵とかその他もろもろの創作物を発表する場になっており、たまに目を見張るような作品を、探さなくても目にすることが出来る、というのはツイッターの良いところだと思う。
創作物と言うのは絵だけではなく、動画や音楽、料理もそうだ。
そしてその中には当然「手(て)芸作品」も含まれる。
手芸とは主に裁縫、刺繍、編み物などのことを指すらしいが、広義では人形やクラフトなどの立体物も含むらしい。
ありがたいことに、私のキャラクターをかたどった手芸作品をいただくこともあるし、最近ツイッターでも作品を見かけることが多い。
そういう良い作品を見ると「つい自分も」などと思ってしがいがちだが、手芸においてはもう「やらない」という英断をしている。
私は手先が不器用なのだ。
これは主観ではなく昔「指先への情報伝達能力が低い」と診断されたので、本当である。 今その診断結果を探しているのだが、当然のように私の部屋に良く発生する亜空間に吸い込まれたため確認はできない。しかし、おそらく確かである。
つまり、頭でイメージした通りの動きを指先で行うことが難しく、まっすぐ線を引くことすらできないので正直漫画家という職業も全く向いてはいないのだが、そこはカレー沢セルシス先生というアシスタントの力を借りて何とかしているという状況だ。
しかし個人でやる手芸と言うのは、3Dプリンターを使うとかでなければ、文字通り己の手の技術のみで成っている世界だと思うので、私は世に出ている手芸作品と同等のものを作ろうと思ったらとても「つくったみた」などという軽い動機では無理であり「ここから先の3年は捨てるつもりでつくってみた」ぐらいの覚悟が必要なのである。
しかも、私は良くも悪くも想像力だけはあるので、頭の中では「素晴らしい作品」をイメージしてしまうのである。
だが、頭の中では最強なものが指先に伝わる頃には四天王最弱レベルになっているのだ。
人が落ち込む原因というのは、現状がどれだけ悲惨か、ではなく、理想と現実のギャップがどれだけ大きいか、なのである。
よって私が、何があったわけでもないのにやたら卑屈なのは、頭で描いたものと自分の手足の動きがあまりにもかけ離れすぎていたせいではないかと思う。
よって、手芸に関しては自分には出来ないと諦めて鑑賞に徹することにしている。
しかし、自分にはムリだと諦めることにもメリットはある。
自分に出来ないことだと理解できると、嫉妬心が起こらず、他人の技術を素直に認めることができるのだ。
そう思えないうちは、他人の作品などを見ても「自分にもできる」と思って、良さを認められないばかりか粗を探してしまったりするのだ。
良い物を良いと思えないというのは非常に不自由である。
出来ないことを出来ないと認めることで、むしろ同じ世界でも良く見えてくるのだ。